「書かれた辻沢 5」
文字数 1,995文字
夜野まひるさんが運転する血の色の車はあたしとユウさんを乗せて、田んぼが広がる辻沢西部の道をひた走ってゆく。
このあたりの記憶の糸は四ツ辻に通じる道だからだろう、鬼子の人の記憶が縒り混ぜられてある。
その一つに、あたしが昔まだフィールドワークを始めたばかりの記憶の糸が残っていて、いまもこうして手を伸ばせば、それに触れることが出来た。
あたしがフィールドワークを始めたのは中学一年になったころで、最初は藤野の家があるN市界隈で行っていた。
と言っても勝手に記憶の糸を読むだけだから人とまったく関わらないものだった。
あるときそれを本格的にしたくなって、役場に届け出をして調査協力をお願いして始めてみた。
ところが、あたしの調査方法は、面白そうな記憶の糸を見つけその場所で読むだけだから、誰にインタビューをするわけでもなく、ただひと所に佇んでぼうっとしているだけなのだ。
そのうち、この子は何か変だということになって、調査中止を言い渡されそこは出禁になってしまった。
結局、ただの冷やかしと見なされたのだ。
そんなことがあったから、N市を出て別所で調査をしなければいけなくなり、ならばと思い立ったのがこの辻沢だった。
ところが辻沢に来て見ると、あたしにとっては気が重い場所だと思い知らされることになる。
それは辻沢が鬼子の記憶が綯 い交ぜになっている場所だったからだ。
その一本一本が、あたしの鬼子としての本性に直接語りかけて来て、存在理由を問うレベルで深く干渉してくる記憶の糸たちだった。
辻沢の駅のホームに立ったとき、まず最初にめまいを覚えた。
強い山椒の香りのせいかと思ったが、そうではなかった。
それは、この駅に降り立った、あるいはここから旅立った鬼子たちの記憶の糸が、我がことのように絡みついてきたからだった。
「やめようか」
と思ったが、すでに紫子さんにその日泊めて貰うことをお願いしていたので、そこまでは頑張ろうと思って辻沢の街に歩き出た。
四ツ辻行きのバスに乗ると目を疑った。
記憶の糸が、バスの中でまるで巨大な練り飴のように捻れあっていたからだ。
あたしは、それに触れないように用心して乗って、辻沢の街中まではなんとか我慢した。
ところがバスが宮木野神社を通り過ぎて、バイパスの交差点を抜けたたくらいで、限界が来て吐いてしまう。
幸いショルダーバッグの中に出したので迷惑は最小限で済んだが、次のバス停で降りなければなければならくなった。
今触れているのが、その時のあたしの記憶の糸だ。大丈夫。吐かないと思う。
そして今これを読んでいるこのこともまた、いずれ糸となってこの場所に折り重なり、辻沢という綾織りの経 と緯 になっていく。
バスを降りてからも、あたしは田んぼの道を歩きながら鬼子の記憶の糸を読み続けていた。
鬼子が生を受け成長して死んで行くゆく様子が、いろんな世代のいろんな人たちの糸として紡がれてあった。
それを拒絶しようにも、一本一本があたしの足を掬い、腕に絡みついて放さない。
あたしは遂にはその場に蹲って、それをひたすら読み続けることになってしまった。
読んでいくうちにそこに鬼子たちばかりでなく、鬼子たちに関わった人の記憶の糸もあることに気が付いた。
鬼子を拾って奴隷にした人、養子にして跡取りにした人、鬼子と夫婦になった人、そういう糸もまた鬼子本人の記憶に沿うようにしてあった。
ところがだ。鬼子の記憶の糸がぷつりと消えると、その寄り添っていた記憶の糸から鬼子の存在が消えて無くなるのだ。
どれもがそうだった。
とても密な関係を持った二人であったとしても、鬼子が死ぬとその人の記憶の糸には鬼子が存在していなかったかのように、跡形も無くなってしまう。
忘れ去られてしまうのだった。
どれもがそうだった。
例外というものがなかった。
つまり、あたしが死んだら藤野の養父母はあたしのことなど忘れてしまうということだ。
愕然とした。
体中が戦慄き震えが止まらなくなった。
「そこにいたのね」
その声で我に返った。
あんまり遅いので紫子さんが車で迎えにきてくれたのだった。
その車中で、紫子さんが言った。
「鬼子はこの世に住むところはないのよ。この世にいるのは仮の姿。だから、みんな忘れてしまう」
あたしは、鬼子の残酷な宿世を知った。
鬼子とは幻。
所詮ヴァーチャルな存在でしかないのだと。
今回、クロエのお世話で辻沢に常駐することにしたが、本当は怖かった。
またあの巨大な練り飴に纏わり付かれるのじゃないかと思って奮えていたのだった。
三人を乗せた車は辻沢の街の手前で右折して、バイパスに入って行った。
夜野まひるさんはさらにアクセルを踏み込んでスピードを上げる。
首筋にユウさんの静かな息づかいを感じる。
あの時は、知らない鬼子の記憶の糸だった。
けれど、今度のは双子のミユウのものだ。
あたしは、そんなものを読んで本当にまともでいられるのだろうか。
このあたりの記憶の糸は四ツ辻に通じる道だからだろう、鬼子の人の記憶が縒り混ぜられてある。
その一つに、あたしが昔まだフィールドワークを始めたばかりの記憶の糸が残っていて、いまもこうして手を伸ばせば、それに触れることが出来た。
あたしがフィールドワークを始めたのは中学一年になったころで、最初は藤野の家があるN市界隈で行っていた。
と言っても勝手に記憶の糸を読むだけだから人とまったく関わらないものだった。
あるときそれを本格的にしたくなって、役場に届け出をして調査協力をお願いして始めてみた。
ところが、あたしの調査方法は、面白そうな記憶の糸を見つけその場所で読むだけだから、誰にインタビューをするわけでもなく、ただひと所に佇んでぼうっとしているだけなのだ。
そのうち、この子は何か変だということになって、調査中止を言い渡されそこは出禁になってしまった。
結局、ただの冷やかしと見なされたのだ。
そんなことがあったから、N市を出て別所で調査をしなければいけなくなり、ならばと思い立ったのがこの辻沢だった。
ところが辻沢に来て見ると、あたしにとっては気が重い場所だと思い知らされることになる。
それは辻沢が鬼子の記憶が
その一本一本が、あたしの鬼子としての本性に直接語りかけて来て、存在理由を問うレベルで深く干渉してくる記憶の糸たちだった。
辻沢の駅のホームに立ったとき、まず最初にめまいを覚えた。
強い山椒の香りのせいかと思ったが、そうではなかった。
それは、この駅に降り立った、あるいはここから旅立った鬼子たちの記憶の糸が、我がことのように絡みついてきたからだった。
「やめようか」
と思ったが、すでに紫子さんにその日泊めて貰うことをお願いしていたので、そこまでは頑張ろうと思って辻沢の街に歩き出た。
四ツ辻行きのバスに乗ると目を疑った。
記憶の糸が、バスの中でまるで巨大な練り飴のように捻れあっていたからだ。
あたしは、それに触れないように用心して乗って、辻沢の街中まではなんとか我慢した。
ところがバスが宮木野神社を通り過ぎて、バイパスの交差点を抜けたたくらいで、限界が来て吐いてしまう。
幸いショルダーバッグの中に出したので迷惑は最小限で済んだが、次のバス停で降りなければなければならくなった。
今触れているのが、その時のあたしの記憶の糸だ。大丈夫。吐かないと思う。
そして今これを読んでいるこのこともまた、いずれ糸となってこの場所に折り重なり、辻沢という綾織りの
バスを降りてからも、あたしは田んぼの道を歩きながら鬼子の記憶の糸を読み続けていた。
鬼子が生を受け成長して死んで行くゆく様子が、いろんな世代のいろんな人たちの糸として紡がれてあった。
それを拒絶しようにも、一本一本があたしの足を掬い、腕に絡みついて放さない。
あたしは遂にはその場に蹲って、それをひたすら読み続けることになってしまった。
読んでいくうちにそこに鬼子たちばかりでなく、鬼子たちに関わった人の記憶の糸もあることに気が付いた。
鬼子を拾って奴隷にした人、養子にして跡取りにした人、鬼子と夫婦になった人、そういう糸もまた鬼子本人の記憶に沿うようにしてあった。
ところがだ。鬼子の記憶の糸がぷつりと消えると、その寄り添っていた記憶の糸から鬼子の存在が消えて無くなるのだ。
どれもがそうだった。
とても密な関係を持った二人であったとしても、鬼子が死ぬとその人の記憶の糸には鬼子が存在していなかったかのように、跡形も無くなってしまう。
忘れ去られてしまうのだった。
どれもがそうだった。
例外というものがなかった。
つまり、あたしが死んだら藤野の養父母はあたしのことなど忘れてしまうということだ。
愕然とした。
体中が戦慄き震えが止まらなくなった。
「そこにいたのね」
その声で我に返った。
あんまり遅いので紫子さんが車で迎えにきてくれたのだった。
その車中で、紫子さんが言った。
「鬼子はこの世に住むところはないのよ。この世にいるのは仮の姿。だから、みんな忘れてしまう」
あたしは、鬼子の残酷な宿世を知った。
鬼子とは幻。
所詮ヴァーチャルな存在でしかないのだと。
今回、クロエのお世話で辻沢に常駐することにしたが、本当は怖かった。
またあの巨大な練り飴に纏わり付かれるのじゃないかと思って奮えていたのだった。
三人を乗せた車は辻沢の街の手前で右折して、バイパスに入って行った。
夜野まひるさんはさらにアクセルを踏み込んでスピードを上げる。
首筋にユウさんの静かな息づかいを感じる。
あの時は、知らない鬼子の記憶の糸だった。
けれど、今度のは双子のミユウのものだ。
あたしは、そんなものを読んで本当にまともでいられるのだろうか。