「夕霧物語」夕霧太夫のゆびきりげんまん

文字数 1,053文字

伊左衛門(いざえもん)は、いるかえ」

夕霧太夫(ゆうぎりだゆう)の寂しげな声がした。

「はい、太夫。ここに控えてございます」

「こっちへ、おりゃれ」

夕霧太夫が日々生活する部屋には何人(なんぴと)もそこを開けてはならない隠し戸がある。

ただ、夕霧太夫のお呼びがあった時だけは中に入ることが許される。年に一度あるかないかの僥倖。それが今だった。

あたしは打ち震えながら隠し戸を開けてにじり入る。

中は十畳ほどの広さで、調度はすべて黒檀の落ち着いているが凛とした空気が漂っていた。

部屋の中央に青白い月光が差し込んでいる。外戸が開け放たれているのだ。

見ればその月影に夕霧太夫のお姿が染め抜かれている。

夕霧太夫は欄干に凭れて夜の景色を眺めていたのだった。

もともとこの世の者とは思えぬ夕霧太夫の横顔を、冬の月がいっそう凄惨に映して美しい。

「伊左衛門、こちへ」

太夫はあたしを側に呼んだ。

「はい、太夫」

あたしが、太夫の足下ににじり寄ると、

「伊左衛門や、あたしはもうじき死にます」

と言った。

「そんな」

あたしは二の句を告げぬまま、嗚咽した。

夕霧太夫のお言葉はこれまで必ずそうなった。

あたしが藻屑(もくず)となって明石の海岸に打ち上げられた時も、

「このものをあたしの部屋へ連れて行く」

と言って本当になった。

だからきっとお命のこともまた、かならずそうなるのだ。

「あたしが死んでひと月たったら(むくろ)を掘り起こして、きっと青墓(あおはか)(もり)に連れて行っておくれ」

青墓の名ならよく知っている。

この宿場の太夫の中にも青墓出の方がおられるし、禿仲間のひいらぎも青墓から流れてきたそうだ。

ただ一つ不安があった。

「仰せの通りに。ただ、伊左衛門は青墓の杜の行き方がわかりませぬ」

夕霧太夫はその慈しみ深い目をあたしに向けて、

「ならば、これをお持ちやれ」

というと右の薬指を咥え、強く噛みしめた。

夕霧太夫の口の中で、

ゴリ

と音がして、口の端から生血がしたたり落ちる。

あたしが慌てて懐紙を差し上げると、
夕霧太夫はもう一方の手で懐紙を取り、咥えた方の手を口から離してそれで押さえた。

そしてあたしに掌を出すように促すと、その上に何かを吐き出した。

指だった。

夕霧太夫の口元から赤い糸を引いて、血に染まった薬指があたしの掌の上に乗っていた。

「伊左衛門や、それをお持ちやれ。さすればきっと迷いなく着ける」

あたしは月を背にした夕霧太夫の影にひれ伏し、夕霧太夫の薬指を恭しく頂いたのだった。

夕霧太夫はそれを見て満足そうに頷くと、懐紙に口の中の生血を吐き出し、再び欄干に凭れ掛かって夜空を仰ぎ見た。そして、

「エニシの月よ」

と歌うように言ったのだった。


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