「書かれた辻沢 39」

文字数 3,318文字

「あなたはどうやってあすこから戻れたのですか?」

 由香里さんが聞いた。

あたしは無我夢中で上へ上へと泳いでいつの間にか戻っていたと答えた。

「あたしの時の不思議な水は、泳ごうにも泳ぐことが出来ませんでした。しかたないので山椒の木によじ登って戻ろうとしたのですが、枝は先に行けば細くなるし、そもそも水の途中までしか伸びていなかった」

 幹を登り枝を伝って枝先から飛びあがっては砂地に落ちてを何度も繰り返した。

さんざんチャレンジして疲れ果て、これで最後にしようと飛び出した時、手先に何かが触れた。

それは人の手で、必死にそれに掴まったらその手が元の世界に引き上げてくれた。

「戻ると涸れ沢でした。あたしは自分と同じ制服を着た女学生と手を繋いで立っていました」

 その女学生はサノクミさんと言って、由香里さんとは清州女学校の同級生だそうだ。

正面の陳列棚に宮木野沿線の女学校の制服が並んでいた。その中に清州女学校という名札が付いたものがあった。

それは空のような青のとても美しい制服だった。

「クミ、どうしてこんなところに?」

 と聞くと、

「あなたこそだけどそれは聞かないわ。あたしは学校の憧れの的がこんな時間に青墓に向かったから付いてきたの」

 学校帰り、由香里さんが駅でいつもと違う方向のバスに乗ったから不審に思って付いてきたのだという。

「でも後から聞いたらそれは嘘でした。クミもあの声に惹かれて青墓にいたのです」

 由香里さんはとにかく家に帰りたくなかったので、その日はクミさんの四ツ辻の家まで行って泊めて貰ったのだそうだ。

「それ以来、二人はいつも手を繋いで一緒にいるような仲になりました」

 クミさんの家が四ツ辻というのは気になったが、あたしはそのまま由香里さんの話を黙って聞くことにした。

「夏休みがもうすぐ終わる大雨の夜、あたしの家にクミが訪ねて来ました」

 大事な用があるから理由は聞かずに一緒に鬼子神社に来て欲しいと言ったという。

「あたしもクミがいつもと違った必死な様子なので直ぐに出掛けるつもりでした。ところがクミにちょっと玄関で待ってもらい部屋で支度して出て行ったら、もうクミは玄関にいませんでした」

 お母様が追い返してしまったという。

「母は言いました。お前は宮木野流本家を継ぐ娘。鬼子に従うなど許さないと」

 由香里さんはその時初めてクミさんが鬼子であることを知ったのだそうだ。

今ではあまり聞かないが、以前は鬼子のことをヴァンパイアが蔑むということがあった。

それが色濃く残っていたのが調家のような旧家だった。

当時、家刀自として宮木野流本家を治める母親の言うことは絶対だったので、由香里さんはクミさんを追いかけることはできなかった。

「母がいない今、クミとの間にどのようなやりとりがあったのかは知りようもありません。でも、あの時あたしはクミと一緒に鬼子神社に行くべきだった」

 九月、夏休みが明けてもクミさんは学校に来なかった。

先生からは行方不明になったと知らされた。

そしてそれから数週間経ったころクミさんについて嫌な噂が耳に入ってきた。

「屍人のクミが青墓を彷徨っている」

 由香里さんは青墓へ行ってクミさんを探した。そして噂が本当であったことを知る。

「由香里あたしたち友達だよね」

 そう言って由香里さんの前に現れた屍人のクミさんの頬には血の涙が伝っていたそうだ。

そして明らかにヴァンパイアにやられたと想われる傷が首元にあったという。

「クミごめん。あたしが一緒なら」

 返事をすれば屍人は襲ってくる。

それを覚悟で由香里さんはクミさんの問いかけに答えたのだった。

しかしクミさんは由香里さんを襲わず、その手を取ると、そこからある想念を送ってきた。

「クミはあたしに美しくも神々しい世界を見せてくれました。それはヒダルも屍人もあたしたちの全てが浄化された世界でした」

 そしてクミさんが手を離すと、その世界は一気に瓦解し消えてなくなったのだそうだ。

「きっとクミとあたしは手を繋いでなければいけなかったのです」

 由香里さんが涙声になっていた。

 取り戻せないのだろうか? その世界を。

クミさんと由香里さんが失った浄化された世界を。

 あたしはミユウのことを思って胸が苦しくなった。

 『「わがちをふふめおにこらや』は浄化への澪標(みおつくし)なのだと思います」

 エリさんが言った。

「確かなことは分かりませんが、この言葉を聞いた者が船頭となって、浄化の世界へ皆を導くのではないかと。その道半ばでクミはヴァンパイアに襲われた」

 由香里さんが言った。

あまりにもミユウの事がかさなって見えて、あたしは何も言うことが出来なくなった。

町長室に長い沈黙が続いて、ようやくエリさんが口を開いた。

「フジノミユキ様は青墓に選ばれたのです」

 それが青墓があたしに伝えたかったことなの? このあたしがみんなを浄化の世界に導くということが。 

「でも、あたしには手を繋ぐ人などいないです」

 まだ半身すら見つかっていないのに。

「そうですか。でも案外近くにいるかもしれませんよ」

 とエリさんがいたずらっぽく微笑んだのだった。



 帰りは由香里さんが送ると言って下さったので、お言葉に甘えることにした。

 てっきりエリさんも一緒に帰るものだと思ったが、庁舎のエントランスまで見送りに出てまた戻ってしまった。

もう9時近くなのにまだ仕事なのと見送ると、

「エリさんは庁舎が住まいです。いいえ、囚われているのです」

 と由香里さんが悲しそうに言った。

どういうことかと思ったが、それ以上は言うつもりがなさそうなので、あたしは改めて聞くことはしなかった。

 運転手付きの黒塗りのミニバンの後部シートに並んで座って話の続きをした。

四ツ辻のバスのアナウンスについてだ。

「あのことを忘れないために四ツ辻にモニュメントを残したいと思ったのですが、紫子さんに断られました」

ロビーにあるようなモニュメントを置かれても四ツ辻の皆さんは困るだろう。

「結局、父に頼んでああするのが精一杯でした」

当時の由香里さんって、結構バブリーだったようだ。

 最後に、クロエのことで伝えたかったことをお話しした。

「クロエの荷物は、あたしの友達を殺したヴァンパイアがお宅に戻したものです」

 と言うと、

「知っていました。ノタさんは向こうに利用されていることも最初から」

 と意外な答えが帰ってきた。

「クロエがですか?」

「そうです。辻沢のヴァンパイアの動向を探るための。ノタさんは無意識にやっていて気付がいていませんが」

 催眠術にでもかかっているのだろうか。

「放って置いていいんですか?」

「こちらでそれと分かっていれば、都合のよい情報を与えればいいのです。それに向こうの手中にあると思わせておけばノタさんは安全です」

 よくわからないけど、そういうものなのか。

「ただ、ノタさんが四ツ辻にいきなり調査に行ったと聞いた時は、正直どうなるかと思いました」

 鞠野先生もクロエが辻沢に調査に入ってすぐに四ツ辻に行ったと聞いて驚いていた。

あの時はエニシのなせる業かと言ってはいたが、最初から敵が四ツ辻、つまり鬼子狙いだったと思うと周到さが怖かった。

「四ツ辻では、紫子さんが差配して下さって今のところうまく運んでいるようですが」

 あたしもミユウもどんだけ紫子さんのお世話になってきたか。

やはり紫子さんの存在は大きい。

 バイパス手前のバス停で降ろしてもらって由香里さんとお別れした。

「ありがとうございました。今度お話に伺ってもいいですか?」

「いつでもいらしてくださいね」

「ありがとうございます。あ、あたしが辻沢にいることはクロエには……」

 と言いかけると、

「承知しています」

 と聞こえてすぐにドアが閉まり、黒いミニバンは走り出したのだった。

 調家なんて由緒正しい家がクロエを引き受けたのは、四宮浩太郎がフィールドワーカーだったばかりではなかったのだな。

きっと由香里さんは今でもクミさんのことを想っているんだろう。

 あたしだってそうだミユウのことを想わない時はない。

 もし、あたしが本当にみんなを浄化の世界に導くことができたら、きっとそこでミユウを探し出して見せる。

そうしたら今度は二度とミユウと離れたりしない。
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