「辻沢ノーツ 51」 

文字数 1,545文字

「こんにちは」

「おかえり」

座卓を前に腰を下ろしこちらに向かって笑顔を見せているのは、Nさんだった。

冷房が効きすぎているのか、部屋の中はひんやりとしている。

「Nさん、体の調子はいかがですか? お迎えに行くべきでした。申し訳ございませんでした」

「いいよ。あたしらは身体なんか何とでもなる。それより聞きたいんだろ、遊女の話」

Nさんの話し方がいつもよりはっきりとしている。

この間のインタビューが別人のようだ。

「遊女の話ですか?」

「違ったかい?」

「いいえ、思ってもみなかったから。でも、どうしてあたしが遊女の話を聞きに来ると?」

「まあ、この間の話に仕込んでおいたからさ。じきに連絡してくると思ってたよ」

今日はホントはそのためで来たようなものだった。

Nさんのインタビューを読んでいて、この人ならばきっとという思いがあったのだ。

戻ってからも、Nさんの話をまとめるうち、話の中にひっかる部分がたくさんあることに気が付いた。

何度も何度も録音を聞き直して、何がおかしいのか突き止めようとした。

最初は記憶違いによる混乱なのかと思った。

でも、つじつまは合ってる。

混乱でないとするとあたしが感じるこのもやもやはなんだろうと気になってどうしようもなくなった。

はっきりとは言葉には出来ないけど、その中に重要なヒントが隠されているような気がしてならなかった。

それで、今回はNさん名指しで来ていただいたのだった。

それがNさんの思惑のうちだったとは。

「よろしいですか?」

「いいさ。ただし、写真はなし。アイスィーなんとかもだめだよ」

デジカメもICレコーダーも青墓に置いて来たままだから、持ってこれたのはフィールドノートの新しいのだけ。

「メモは採ってもいいですか?」

「ダメって言っても、どうせ後で思い出して書くんだろ。あの子もそうだったよ。日記つけてたらしい」

「『日記』?」

「ずいぶん前になるかね。ここに足しげく通ってはヴァンパイアのことを聞きたがった若いのがいてさ」

「その方って四宮浩太郎さんですか?」

「死んだ人間の名前は出さないでおくれよ」

「すみません」

このインタビューは学術書や演習のリポートとして人目に触れる機会があるがよいかとNさんに聞いた。

「あの子もそれを確認したよ。でも断った。人目に触れさせることが目的で話すんじゃない。我々には助けが必要だから話すのだと言って、それでも聞くかと質した」

「その方はどうされたのですか?」

「ちょっと戸惑った様子だったが、肯んじたよ。助けると約束してくれた」

あたしは、発表の機会が与えられなかった場合のことなど考えもしなかった。

話が聞けたならそれはリポートに直結させる気でいたから。

録音を起こしてスクリプトを一緒に確認してもらったり、報告書を読んでもらったりというのは、手続きとしか考えてなかった。

 こちらの興味や目的のためでなく、インタビュイーの欲求を突き付けられてそれでも調査を続ける。

その先にあるのは、フィールドワークとは別次元のものなのかもしれない。

「でも、あんたには助けを求めて話すんじゃない」

ちょっと肩透かし。どういうことでしょうか?

「発表してもいいと?」

Nさんは、あたしの顔を覗き込むようにして、

「いいや、そうじゃない」

と言って微笑んだ。

「どうしてお話しいただけるんですか?」

Nさんは座卓の上のあたしの手に触れた。

Nさんの手のぬくもりが伝わって来る。

それは、夜毎の悪夢に目覚めた朝、あたしを胸に抱いて優しい目で見つめながら頬をそっとさすってくれた、おばあちゃんの手のぬくもりと一緒だった。

「あんたに話すのはこれがあんた自身の話だからだ」

「あたし自身の話?」

Nさんがあたしの手を摩ってくれている。

それを見つめているうち、あたしはゆっくりと意識の底に沈んでいくような気がした。
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