「書かれた辻沢 36」

文字数 1,774文字

 コテージに戻って、この二、三日に読んだ記憶の糸のこと、見聞きしたことのテキスト化作業をした。

直ぐにでも鞠野先生に見てもらいたかったからだ。

でも、ユウさんのことは書かずに置いた。

それはあたしにとって大切なことだったからだ。

 あの時あたしは、ユウさんの発現について教えて貰った。

「潮時以外でも発現できるんですね」

 あたしはユウさんが発現した姿を目の当たりにした。

その異形はあたしにとって恐怖でしかなかった。

それが、視界から消えたと思ったら、華奢にみえるけど芯から鍛え上げられた裸のユウさんに戻っていた。

「体力使いすぎるけどね」

 あたしの迷彩服を掛けた肩が大きく上下して荒い息をしていた。

クロエが潮時に夜通し駆けた朝もこんな感じだ。

「逆もですか?」

 と聞いてみた。ユウさんなら出来そうな気がした。

「潮時に発現しないってこと?」

「そうです」

「出来るよ。でも条件付きかもしれない」

 と言うとユウさんは突然あたしの右手を取って強く握った。

ドキっとした。顔が火照るのが分かった。

「こうして、ミユウと手を繋ぐと出来たんだ」

 その温かい掌からユウさんの心残りが伝わってくるようだった。

ミユウのことを想った。

あたしの中に何かがあふれて来て涙になった。

 ユウさんが手を離した。

あたしはそのとき一瞬だけこのまま取れなくなればいいのにと思ってしまった。

それがユウさんとミユウにとって特別なことだと分かっているのに。



 あたしがPCに向かっている間、鞠野先生はバモスくんでコテージとヤオマンホテルを往復して、ミユキが残していった山椒の鉢植えをこっちに移動してくれていた。

ホテル側は別のスペースを用意すると言ってくれたけれど、水やりの手間とかを考えると手元にあったほうがいいということで引き取ることにしたのだった。

 これが最後かなと出て行って、1時間ほどして鞠野先生が、

「すごい雨になった。ずぶ濡れだよ」

 と言って帰ってきた。

「シャワーしてください」

 バスタオルを用意して、念のため、

「裸で出てきたらそのまま追い出します」

 と釘をさす。

鞠野先生なら、さっぱりしたーとか言って真っ裸で出てきそうだからだ。

「まさか。パンツぐらいはくよ」

 度しがたしとはこのことだ。問題の所在を分かっていない。

ここは女子生徒の部屋なんだぞ。

「今すぐバモスくんで東京に帰りますか?」

 そう言われてやっと分かったらしく、

「いや、それは困る。キチンとします」

 と言ってシャワー室に向かったのだった。

 シャワーから出てきた鞠野先生は、柄物の半袖シャツにアースカラーの短パン姿だった。

シャツの第一ボタンをはめてとても窮屈そうだ。

よほど東京に帰りたくなかったらしい。

 天井を叩く雨の音が激しかった。

窓の外を見ると近くの森が雨に煙って見えなくなるほどだった。

「この雨。しばらく続くよ」

 鞠野先生があたしのPCで資料を読みながら言った。

「明日の朝には止みますかね」

「いや。二三日、あるいは一週間こんな感じかもしれない」

 秋の長雨には早すぎるし、ニュースでは台風が来てるとも言っていなかった。

「ここら辺りだけみたいだけどね。夏の終わりに雨が続くことがある。何十年かに一度のことらしい」

 ここらと言えばあたしの住んでいたN市も含まれるのだろうけれど、こんな激しい雨が降り続けたなんて記憶がなかった。

辻沢だけのこと?

「辻沢は何十年周期かで大豊作になるって。それが今年らしいです」

 タクシーの運転手さんの言葉を思いだした。この雨と関係があるのだろうか?

 鞠野先生はPCの資料に目を通し終わったようだった。

「何か飲まれますか?」

 と聞くと、

「チャイなんかあると嬉しいかな」

 とリクエストされた。

 正統なチャイの作り方だと色々スパイスを入れるらしいけど、あたしのは紅茶とミルクとお砂糖とショウガを一緒にして片手鍋で煮立てて終わり。簡単だった。

 片手鍋からマグカップに移してシナモンをかけて出来上がり。

シナモンパウダーがあったはずだけど見つからないから、ヤオマン珈琲にならって山椒粉をぶっかける。

特製辻沢チャイの完成だ。

 鞠野先生はそれを一口含むと、鼻をムズムズさせながら

「ン? これはまた本格的なチャイだね」

 と言った。そんなはずはないのだが、

「辻沢ですから」

 とあたしが言うと、鞠野先生は納得した様子で二口目を飲んだのだった。
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