「辻沢ノーツ 54」

文字数 1,068文字

 演目は2つあって、始めは『碁太平記白石噺』(ごたいへいきしらいしばなし)新吉原揚屋の段で、こっちが宮木野としのぶの話、もう一つが『曲輪ぶんしょう(文偏に章)』吉田屋の段で、夕霧と伊左衛門の話なんだ。

行ってみようかな。

 小ホールって言うから狭めとは思ったけど想像以上だった。

地下室みたいなところで、舞台も教壇くらいでこじんまりしてて、演者さんの息遣いまで聞こえてきそうな客席との距離だった。

前の半分には座椅子が置いてあって、後ろがパイプ椅子。

前で爆睡して船漕いだらやばいから、一番後ろの端っこに座った。

来ている人はお年を召した方かほとんど、学者さんのような感じのおじさんがちらほら。

若い人はサラリーマン風のお兄さんが一人いるだけ。

好きなのかな、こういうの。

 やっと最初の演目終わった。

ギリ目が開けてられた。

休憩15分、おトイレで顔洗って来よう。

語ってた人若かったな。

辻本近江太夫って言うんだ。

ひょっとしてあたしぐらいの年かも。

どうしたらこういう環境と出会うのか、不思議。

ホールぎっちぎち。出て来た人でいっぱい。

おトイレどこかな。

「こんばんは」

結いあげた髪に花簪。

真っ白いドーランにピンクの頬紅、うるんだ瞳の中に漆黒の闇が見える。

あたし、太夫さんに知り合いはいませんが。

「お分かりにならないかしら、私です。Aです」

マジ?

「え? 出てらっしゃるんですか?」

「素人が娘義太夫の格好なんかして、おはずかしいんですけど」

本当にすごくお似合いです。

とってもキレイ。

「次の演目のくるわぶんしょうって」

「そうです。私が語ります」

「じゃあ、辻本幻太夫さんって」

恥ずかしそうに頷くAさん。

つやっぽいデス。

「それでは、用意がありますんで」

後ろ姿もとってもあでやか。

みほれちゃうな。って、やばかった。

来てよかった。これは外せなかった。

 いけない。絶対、寝てはいけない。

腕をつねって。ほっぺた叩いて。

でも気が遠くなる。

頭のうしろから魂ぬかれるみたいな心地よさ。

感想とか聞かれちゃうから。寝ちゃダメって。クロエ、ここは勝負の時だよ。

だめ、だ、か、ら……。

 幻太夫が演台の向こうから話しかけて来る。

「なかよくしましょ」

「いさかいはいけません」

ジョーロリは終わっちゃったの?

「目を覚ましてくださいな」

ごめんなさい。

「しようのない人ね」

会場のみなさんが立ち上がって、

「夕霧太夫にも」

「困ったものです」

「伊左衛門に」

「なんとかしてもらわないと」

起きないと。はやく起きないと。体が動かないよ。

 がっつり寝た。よだれ出てた。いびき掻いてなかったよね。

恥ずかしいから早く帰ろう。
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