「書かれた辻沢 6」

文字数 2,070文字

 辻沢からN市まで、名曳川鉄橋が掛かる旧道だと1時間かかる。

それに対し、バイパスは20分で抜けられるのでN市に勤めを持つ人の車で緩い渋滞になっていた。

 あたしたちの車もスピードを落としてその列に加わる。

「ミユキが読むのって時間が経つとダメとかないの」

 背中でユウさんが言った。

「永久にそこにある感じです」

 確かに記憶の糸というのは一度出来ると消えることはないのだが、それにもやはり強弱があった。

あることは分かるけれど目を凝らさないと見えてこないものとかもある。

そういうのには時間が経ったものが多い気もするが、最近出来たらしいもので薄いということがある。

 これはその糸自体の差異というのではなく、多分読み手のあたしの関心によるんだと思う。

だから辻沢であたしが目にする記憶の糸は鬼子やフィールドワーカーのものが多いのだと思う。

 夜野まひるさんがウインカーを付けて右折車線に入った。

大曲大橋の袂の、雄蛇ヶ池端へ降りる道に入るつもりらしい。

 脇道へ入り砂利を踏む音を聞きながら、エメラルドグリーンの水を湛える雄蛇ヶ池に降りていく。

「ここでした」

 車を停めて夜野まひるさんが言った。

 あたしは車の中からミユキの記憶の糸を探した。

 日課のランニングを止めようとしている誰かの記憶、釣り人の芳しくない釣果の記憶。

捨ててはいけないものを沈めに来てしまった人の記憶。

遠くからチャリで来た中学生たちの記憶。

様々な記憶の糸がこんな往来の少ない脇道にも折り重なっていた。

その中に一際目立つ真っ赤な糸。

四ツ辻の人たちのいう地獄染めの糸があった。

あたしの薬指の糸と同じ色だ。

 それは道の遙か前方からこちらに向かって来て、車の手前でぷっつりと切れていた。

「ありました」

 そういうと、背中のユウさんが、

「出よう」

 ドアロックが解除される音がした。

 ユウさんは片手を伸ばしてドアハンドルを手探りしている。

あたしが代わりにハンドルを引いてドアを開けると、ユウさんは小さく息を吸ったのだった。

 車を降りて砂利の道に立つと、ミユウの残した記憶の糸があたしに気がついたかのように糸口をこちらに向けてきた。

足が震えて動けなかった。

これをあたしは読むのか。そう思った。

 背中に何かが触れた。

ヒヤッとするそれは、あたしの横にいつの間にか立っていた夜野まひるさんの掌だった。

「無理をなさらずに。止めて頂いても結構ですよ。ユウさんもそれは分かって下さっています」

 車の横で腕組みをしているユウさんを見た。

「言ったろ。自分で探すって」

 やっぱり、そんなことさせられないからと思ったら、

「大丈夫ですよ。ユウ様はミユキ様が思う1億倍お強いですから」

 と夜野まひるさんがあたしの心を読んだかのように言った。

「一億倍って……」

「一兆倍かもな」

 ユウさんが大げさに片眉をつり上げながら言った。

 それであたしはようやく気がついた。

あたしにはこの人たちが付いていたんだと。

なんで今まであたしはミユウの記憶の糸を一人で読もうとしていたのだろう。

「あたし読みます。その前にお願いしてもいいですか?」

「何なりと」

 夜野まひるさんが笑顔で言った。

その笑顔に思わず惹きこまれそうになったけれども、それは後にして、

「あたしと手を繋いで下さいませんか?」

「あたしなどでよろしければ」

 と言って夜野まひるさんが手を差し出した。

手を繋ぐと、夜野まひるさんの掌はとても冷たかったけれど、今はそれがあたしの気持ちを落ち着かせてくれた。

「あの、できればユウさんも」

「いいよ」

 とユウさんもあたしの横に来て、力強く握ってくれた。

 二人のサポートを同時に受けるという思いつきはよかった。

でも失敗だった。両手が塞がってしまったのだ。

あたしはこれまでずっと記憶の糸を薬指で触れて読んできたのだった。どうしよう。

しかたないのであたしはミユウの記憶の糸を口に咥えることにした。

そこに、プップッピーピーという音。

あー。あのおかしな音は、バモス・ホンダTN360。鞠野先生が来たんだ。

 砂利の坂道を振り返ると、大曲大橋からクロエ曰く、コアラのお面みたいが降りてくるのが見えた。

「お知り合いですか?」

 と夜野まひるさんが言ったので、

「はい。大学の担当教授です」

 と説明した。

 あたしは鞠野先生が来るのを待つことにして、ユウさんと夜野まひるさんにそのことを伝えて一旦繋いだ手を離してもらった。
 
「なんか、全然来ないな。あれ」

 ユウさんがボソッと言った。

 そう言えば、バモスくんはさきほどからこちらに近づいている感じがなかった。

「ちょっと見てきます」

 あたしは様子を見に砂利道を駆け上がった。

 バモスくんの運転席を覗くと、背中を窮屈そうに折り曲げてダッシュボードの下に頭を突っ込んでいる白Yシャツが見えた。

「先生。どうしたんですか?」

 と声を掛けると顔を上げた鞠野先生は、

「いやね。ブレーキが踏みっぱなしになっちゃって」

 と情けない声で言ったのだった。

 取りあえずバモスくんはそこに停めて、あたしは鞠野先生に事情を話しながらもとの場所にもどったのだった。

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