第202話 縁 その2
文字数 2,575文字
普通、名前は猪助とか、猪吉となるが、この男は猪座と名乗っている。
座頭の座を付けた名前である。
珍しい名付けではあるが、何処にでもありそうな名前といえた。
ただ、座頭というと按摩のようであるが別に盲目ではない。
きちんと目は見える、というより人一倍目がよい方であった。
それもその
マタギは目が良くなければ勤まらない。
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猪座はその日、獲物が捕れず薬草の採取に切り替えた。
そして山中を歩き回った結果、薬草が思ったより採れたためホクホクの
猪座は喜びの声を漏らす。
「この薬草は
これで酒が買えるな、うん、うん、ついておるぞ。
今日は猟ではだめであったが、良い薬草日和だ。
まるで
そう独りごちし、ついでにお気に入りの景色を見て帰ろうと思った。
それは峠の一番高い所にあり、国境付近にある場所だ。
今いる場所から少々離れていた。
遠回りとはなるが、帰るには時間も多少早かったので寄ることにしたのだ。
猪座はお気に入りの景色の場所にたどり着き景色を眺めた。
破顔をし、深呼吸をする。
「うむ、この景色はいつ見てもよいのう。
ここから見える陰の国の景色は、心が和む。
あのお方がいる国だけのことはあるのう。
それにしても、陰とはへんな名前をつけたものよ。
我が国の陽という国名に、対抗したかのような名前よのう。
まあ陰陽という言葉があるくらいだから、深い意味で付けたとは思うが・・。」
猪座はしばらく景色を楽しんだ後、気が向いて来た道と別のルートを歩き始めた。
そして頂上から少し歩いた時、猪座は顔を
「行き倒れか?
はぁ、今日はなんという日なのだろうか・・。
猟でうまくいかず、薬草が採れて気分をよくし、こんどは死人を見つけるとはのう・・。
見て見ぬふりはできぬか・・。
面倒だが仕方ない、埋葬ぐらいしてやるか・・。
たたられても困るし、山の神様も放置されたら困るだろう。
いやはや、とんだ重労働だわい。」
猪座は行き倒れに近づき、すこし手前で立ち止まる。
そして再び顔をしかめた。
「
一目見て息絶えているのが分かった。
それも胸を刃物で突かれて。
盗賊に襲われたわけではなさそうである。
盗賊なら滅多切りだ。
だが、この男は一突きであった。
さらに盗賊ならば身ぐるみが剥がされる。
だが、この男は違っていた。
服と持ち物はそのまま残っていた。
と、言っても大したものは持っているわけではないのだが・・・。
つまり状況から盗賊などに襲われたのではないという事だ。
猪座はゆっくりとあたりを注意深く見回した。
此奴を倒した者が近くにいないか確認をしたのだ。
猪座は後悔をしていた。
普通、死人を見たら腰を抜かす。
たとえ漁師であってもだ。
熊や猪ではないのだ。
生き物の生死を見てきたマタギといえども、人の生き死には別物だ。
だが、自分は腰を抜かさずに冷静に死人を見て、しかも観察してしまったのだ。
これというのも山奥で暮らし、人との接触が少ない山暮らしの弊害であった。
町中で住んでいたら、このような事はなかっただろう・・。
猪座は緊張した。
この死人の襲撃者から襲われるのではないかと・・。
死人を見つけ死体を冷静に観察している己を、殺害者が見つめているかもしれないからだ。
このように冷静に見る者など山周りの役人か、隠密と勘違いされても不思議はない。
そのような者は、死体を目撃され通報されるのを恐れる。
襲われても不思議はないのだ。
だが、周りには山の動物以外の気配はなかった。
猪座はすぐにその場を離れ、家に帰ろうか迷った。
もう一人、少し離れた木に背を預け座り込んでいる者がいたからだ。
ここからでは、生死は分からない・・。
本能が関わるなと言っている。
だが、なんとなくその者に興味を抱いたのだ。
理由はわからない。
猪座はゆっくりと木にもたれ掛かっている者に近づいていった。
その者の少し手前で立ち止まり、念のため辺りを一度警戒した。
しかし、やはり周りには人の気配がない。
これほど警戒しても人の気配がないと言うことは、もうこの辺りに襲撃者はいないのだろう。
木にもたれ掛かっている者を観察し、猪座はため息を漏らした。
「厄介な・・・。
此奴は肩に矢を受けているのか・・。
それに手元に転がっている短刀に血の跡・・・。
先ほどの者の胸を突いたのは此奴かもしれぬな。
二人は死闘でも行ったのかもしれぬ。
俯いて顔はわからんか・・。
まあ、興味もないからどうでもよいか。
微動だにせんから、事切れているのであろうな。
関わらぬのが一番か・・。」
そういって踵を返した。
そして先に見た死体の脇を通る。
通りながら、今一度観察した。
「此奴を
だとすると、木の側の彼奴はかなりの者ということになるな。
だが、武士にも隠密にも見えぬ・・・。
まぁ、儂にはかかわりのない連中であることは確かだな。
このままにして帰ろう・・。」
猪座がそう呟いてその場を過ぎようとした時である。
かすかに声がした。
いや声というより呻き声だ。
猪座は先ほどの木にもたれ掛かれ項垂れている者に振り向いた。
「生きているのか・・。
助けるか・・。
いや・・
放っておこう。」
そう思い離れようと数歩歩いた足が立ち止まる。
頭の片隅に、何かが引っかかったのだ。
猪座は反転し木の側の男に近づき、両手でその男の
「こ、此奴は・・!」
猪座はその男の頬を軽く叩いて、気づかせようとした。
だが、反応が無い。
猪座は男の怪我を検分する。
「肩を矢でやられた以外に傷らしきものはない。
それにしても、此奴が矢を受けたとはな。
此奴らしくない。
いったい何があったというのだ?
いや、そんな事はどうでもよい!
このような致命傷とならぬ矢で何故、倒れておる?!
汗をかき今にも死にそうではないか!
何故だ!
・・・。
待てよ・・
毒か?
そうか! 毒矢か!
これはまずいぞ!」
猪座は自分の荷物を人目に付かない藪の中に隠し身軽になった。
そして、木にもたれている男を背負うと同時に駆けだした。
山を熟知し、足腰をマタギで鍛えた男は軽快な足取りで山を駆け下る。
まるで大の大人を背負っていなかのようであった。