第206話 縁 静の場合 その1

文字数 2,710文字

 神一郎(しんいちろう)一之進(いちのしん)、いや猪座(いのざ)の話しに首をかしげた。

 「済まぬ、思い出せぬ。」

 「いや、覚えていないならばそれでもかまいませぬ。
いずれにせよ、貴方に私たちは救われたのです。」

 「そうですか・・。」

 「私は貴方に助けられた恩義がある。
ですから傷が()えるまで、此処(ここ)にいてくださいませぬか?」

 猪座にそう言われたものの、()の国の追手(おって)がまだいるかもしれぬのだ。
巻き込みたくはない。

 だが、無碍に断るのも無礼にあたると考え、今までの経緯を当たり障りの無い話に置き換え話した。
それはある人物を緋の国から守ったため、緋の国の間者から報復を受けたという話にして。
そのため自分をまだ付け狙っている者がいるかもしれず危険なのだと。

 その説明を聞き終えた後、猪座は()に落ちた顔をした。
そして、唐突に猪座は話し始める。

 「私は今ではマタギとして暮らしております。
奥深い山に暮らせば鳥獣以外おりませぬ。
そこに人が入ってくればわかります。
人の近くでは小鳥が鳴かずおおよその居場所が分かります。
草を見れば踏みつぶされ、枝が折ら人が来た事が分かります。
私は今では山の空気の違いとして感じ取ることができるようになりました。」

 「空気、ですか・・。」
 「ええ、言葉で表せばそうとしか言いようがないのです。
人がいれば隠れていようが、その周辺の空気が違うのです。」

 「武道に通じるものかもしれませぬな。
人が動こうとした刹那に感じる、あの感覚なのでしょうか?」

 「武道を極めた貴方様の感覚は私にはわかりませぬ。
ですが、そのようなものかと。
それで、私が神一郎様を山で見つけたとき、周りに人の気配はありませんでした。
また、ここに神一郎様をお連れするときも。
それにこの小屋の周りでの人の気配なら、なおさら分かります。
そして此処は里から外れ、また山道からも外れた場所です。
貴方様を探そうとしても、捜索範囲に入らない。
ですので安心して、ここで療養してくだされ。」

 そういって猪座は頭を下げた。
神一郎は目を一度瞑り、やがて一つため息を吐く。
そして

 「分かりました・・。
ご厚意に甘えます。
山を下りる体力が付くまでお世話になります。」

 「そうしてくだされ。」
 「うん、おじちゃん、それがいいよ!」
 「ありがとう、お(けい)ちゃん。世話になるよ。」
 「うん。」

 「ところで奥方様は?」
 「妻は・・鬼籍(きせき)に入り申した・・・。」
 「そうですか、それは・・・、悪いことを聞きました。」

 「いえ、気になさらないでください。妻も神一郎様に感謝をしておりました。」
 「そうですか・・」

 神一郎はこれほど自分に恩義を感じてくれた猪座夫婦に親近感を感じていた。
そして亡くなったご妻女の事を猪座に聞きたくなる。
故人の事を聞いて(しの)ぶ事は供養になるからだ。

 神一郎は猪座に、奥方の事を聞くことにした。

 「よろしければ奥様の事をお聞かせくださいませぬか?」

 意外な神一郎の申し出に猪座は一瞬、ポカンとした。
だが妻の事を人とこのところ話していないことに気がついた。
そして命の恩人に妻のことを話すと、何となく妻が喜んでくれる気がしてならない。

 「妻の・・話しですか・・」
 「はい。」
 「・・・分かりました。」

 猪座は神一郎が自分達を救ってくれてからのことをポツリ、ポツリと話し始めた。
それは神一郎に助けてもらった翌日からの話しである。

 猪座こと一之進は国主への面会を求めた。
家老に待ち伏せされたことを報告するためだ。
早朝の事である。
だが、普段なら待たされずすぐに面会できるのだが、その日の面会は昼過ぎまで待たされた。
一抹の不安が猪座の脳裏に()ぎる。

 やがて面会時間となり、一之進は家老の待ち伏せの件を国主に報告した。
国主は口を挟むことなく報告を黙って聞いていた。
だが、話し終えても国主は何も言わない。

 国主にしては珍しい事であった。
即決即断をする切れ者の国主である。
それが即座に命を下さず考え込んだのである。

 一之進は部下が狙われ、組織が瓦解するのを恐れていた。
事は一刻を争う。
猪座は国主に決断を求めた。
だが国主は腕を組み黙って聞くだけであった。

 一之進はいやな予感がした。

 やがて国主は腕をほどき、一之進を軽く見やると・・

 「本件については分かった、下がってよい。」
 「え! しかし、殿!」
 「下がれ。」
 「殿! 部下達の命に関わる一大事にござりまする!」
 「下がれと言っておる。」
 「・・・・はい。」

 一家臣が殿に意見などすることなどできない。
これが国主に対して、一之進ができる最大の異議申し立てであった。
一之進は奥歯を噛みしめて辞去した。

 そして数日後、一之進の同僚が川で水死体となり発見された。
取り調べの結果は、酒によって足を踏み外し川に落ちた事故死であった。

 一之進は部下の葬儀に出たあと、仲間と一膳飯屋で酒を呑んだ。

 「巫山戯る(ふざける)な!
彼奴(あやつ)の泳法は免許皆伝(めんきょかいでん)ぞ。
そのような者が酒に酔って水死などするものか!」

 憤懣やるかたない。
だが、事はこれで終わらなかった。

 数日後、今度は別の同僚が山で足を滑らせ転落死した。
それを聞いて一之進は国主に面会を求めた。
だが、面会はかなわなかった。
今まで面会を求め、拒否されたことはなかった。

 一之進は悟った。
国主は我らを見放したのだと。
あの家老に国主は丸め込まれたか、逆らうのは得策でないと考えたのであろう。
自分の身が危険だと悟ったのかもしれない。
頭の切れる国主だ。
おそらく自分らを切る判断は正しかったであろう。

 だが家臣としてはたまったものではない。

 一之進は残った者を集め密談をした。
結果・・脱藩(だっぱん)、つまり城勤めをやめ家老の手から逃れることにした。
一同は(はらわた)が煮えくりかえる思いであった。
殿のため、国のため、民のためと危険を顧みず奉公をしてきたのだ。
その結果、殿から見放され家老一味からは隙あらば命を狙われることとなった。
だが、それを(なげ)いてもどうしようもない。

 このままでは、事故を装うか闇討ちで殺されるだけだ。
あの家老に寝返るという手もあるが、それは(かけ)だ。
有無を言わさず殺される可能性が高い。
それに武士たる者、そのような寝返りなどできぬ。

 こうして一之進の組織は壊滅(かいめつ)した。

 同僚らのほとんどは国抜け(くにぬけ)を選んだ。
だが夜盗に襲われたか転落死の遺体で発見されたのだ。
家老一派による襲撃にあったと考えるのが普通であろう。
それでも数家族は成功したようであった。

 一之進はというと、国内に残り生きていく事を選んだ。
妻とは離縁し、妻に何かあったなら駆けつける事にした。

 そのことを話すため、一之進は妻の実家に出向いた。
妻の実家の座敷に通された時、そこに妻が正座をして待っていた。
旅装束(たびしょうぞく)であった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み