第213話 縁 市 その4

文字数 2,983文字

 (いち)奪衣婆(だつえば)が、何を言いたいのか分からず困惑した。
恋愛をせよという事なのだろうか・・?。

 「奪衣婆様、恋愛とは煩悩(ぼんのう)を生み出すものではないのですか?
恋愛は解脱をせよという奪衣婆様のお言葉に反する行為なのではありませんか?」

 「そうじゃな。恋愛は煩悩と深い関わりがある。
これに(とら)われると解脱(げだつ)阻害(そがい)する要因となるであろう。
だがのう、恋愛は人の本能なのじゃよ。
人として生きる上で恋愛は必要不可欠。
じゃが解脱の邪魔でもある。
面白い(おもしろい)ものよのう、人とは。」

 「あの・・、ではなぜ恋愛の話をなさいます?」

 「お前は平安の時代、解脱の境地にまで達すれど、愛という曖昧(あいまい)なものは経験しておらん。」
 「えぇ・・、ですが、それは先ほど奪衣婆様がおっしゃった解脱を害するものでございましょ?」
 「そうじゃ。」
 「なのに何故恋愛をすすめるかのような事をおっしゃられるのでしょうか?」

 「そうじゃな、では、今の転生で裕紀(ゆうき)をどう考える?」
 「え?」

 裕紀と聞いて市は一瞬動揺した。

 「現世(うつしよ)で人として生き、好きだと思ったのではないのか?」

 市はそれを聞き、顔を真っ赤にした。

 現世を離れ天界での記憶を戻したというのに、なぜこれほど現世の事で動揺するのだろう・・。
そんな自分が信じられなかった。

 市はあたふたとしながらも、ふと疑問を感じた。
それを奪衣婆に正直に言う。

 「確かに裕紀様は・・好きです。
でも、恋愛というのではなく・・・助けていただいたり・・その・・。」

 「なんじゃ?」
 「え?!」
 「はっきりと言いなさい。」

 「た、たぶん・・敬愛(けいあい)です、恋愛ではなく敬愛かと・・。」
 「そうなのか?」
 「はい。」

 「裕紀に抱かれたいとは思わなんだか?」
 「え!?」

 奪衣婆の言葉に市は絶句した。

 「どうじゃ? そう思ったことは一度もないのか?」
 「・・・。」

 「素直になれ、市よ。」

 その言葉に市は(うつむ)いた。

 「恋愛は人間固有の感情じゃ。
とはいえ類人猿や鳥にも似たようなものがある。
だが、似て非なるもの。
彼らはより自分の子孫繁栄という目的に純粋じゃ。
人は子孫繁栄以外に、心のままに動く。
お前は人として転生しておる。
人として転生したからには、人の恋愛というものを知るべきなのだ。」

 「・・・。」

 「よいか市・・・。
一通り人として現世(うつしよ)を経験せよ。
満喫せよ。
そして、その上で解脱(げだつ)をするべきなのだよ。
よいな。」

 「あの・・」
 「なんじゃ?」

 「解脱するため、帝釈天(たいしゃくてん)様を付けてくださったのは・・その・・。
私は(めぐ)まれすぎではございませぬか?」

 「そうよのう・・。
そうかもしれぬし、そうでもないかもしれぬ。
あまり気にするでない。
(わらわ)愚息(ぐそく)へお(きゅう)()えただけにすぎぬ。
妾の目をごまかして、あの子は好き勝手をしよった罰じゃ。
お前の供として転生させたのは、よい罰だと思わぬか?」

 「え? それだけの理由で、私に帝釈天様を付けたのですか?」
 「そうじゃ。(いや)か?」
 「嫌などと、とんでもない!」
 「ならばよいではないか?」
 「・・・。」

 「帝釈天は現世(うつしよ)では神としての記憶はない。
じゃが人として、裕紀にはご神託(しんたく)を与えてある。
あの子はそれで十分にお前の解脱を助けるであろう。」

 「それは・・・有り難く、そしておそれ多いことでございます。」

 「だが帝釈天が(そば)におっても気を抜く出ないぞ。
現世とは人の魂の本質を(きた)える道場じゃ。
生ぬるい場所ではない。
仏の教えをことごとくさせないように誘惑が渦巻く世界だ。
そのような世界でお前は人として生き、恋愛をする。
だが恋愛が成就(じょうじゅ)するとはかぎらぬ。
しかし、お前は好きだと思った()の子に突進するのは嫌いではなかろう?」

 その言葉に市は唖然とした。

 「どうじゃ、帝釈天に自分が好きだと言わせてみよ。」

 その言葉に、市の顔がみるみる間に赤くなる。

 「ふふふふふふふ。
まあ、息子とあちらの世界で楽しんでくるがよい。」

 「だ、奪衣婆様!」

 市は思わず叫び、首まで真っ赤にした。
そして恥ずかしさのあまり、奪衣婆から目をそらした。
その時、奪衣婆の後ろに控えている側仕え(そばつかえ)が目に入る。
その者は、(そで)で口を押さえたのだ。
笑いをこらえたに違いない。
市はいたたまれなくなった。

 そんな市を知ってか知らずか、奪衣婆は市に質問をしてきた。

 「それで、あちらでは帝釈天はどうしておる。
どうも天界から(のぞ)いても、よくはわからぬ。
どうせあの子の事じゃ、好き勝手にやっているのであろう?」

 「いえ、現世は人の世界であり神の世界の道理が通じませぬ。
理不尽な世界で、帝釈天様はよく我慢をされているかと私は思います。」

 「ふふふふふふ、天界では好き勝手にしていた罰じゃ。
良いきみじゃな。」

 「まあ、奪衣婆様・・、そのような事を。」

 「よいではないか、(わらわ)のお茶の相手さえろくにしてくれぬ息子じゃ。
陰口くらいは許されるであろう?」

 そう言って奪衣婆は笑う。
市もつられて笑ってしまった。

 その時、部屋の扉がノックされた。

 「おや、無粋(ぶすい)な・・・、お茶の時間に訪ねてまいるなど。」

 奪衣婆がそれを言うのと同時にドアが開かれ、女官が入ってきた。
開口一番、その女官が奪衣婆を怒鳴りつける

 「何がお茶の時間ですか!
休み時間はとうに過ぎておりますよ、奪衣婆様!
仕事がただでさえ遅れているのです。
いい加減に仕事にお戻りください!
奪衣婆様の決済がなく私たちの仕事が止まっているのですからね!」

 「おやおや、そんなに怒らんでもよいではないか?」
 「怒りたくもなります!」
 「そうだ、決済印をお前が好きに押せば仕事がスムーズに・」

 「馬鹿をおっしゃいますな!
さあ、行きますよ!」

 そういって女官は奪衣婆の右手を掴み、奪衣婆を強引に椅子から立ち上がらせた。
そして奪衣婆を引っ張りドアに向かう。

 「こ、これ、待て、も、もう少しお茶をだな・」
 「これ以上のお茶をしたら夕飯になってしまいます!」
 「おお、それもよいのう・・。」
 「何を暢気(のんき)な!」

 奪衣婆は女官に連行され部屋の外に連れ出されてしまった。
後に残った市は口を開け、ポカンとするしかなかった。

 そんな市に後ろで控えていた奪衣婆の側仕えがクスクスと笑う。

 「お市様、ご苦労様でした。」
 「え、ええ・・・、あの、私はこれで帰っても・・。」

 「ええ、問題ないですよ。
今日はありがとうございました。
あのように(うれ)しそうに過ごされた奪衣婆様の姿を久々に見ました。」

 「そう・・ですか?・・・。」
 「あの、お市様、帝釈天様の事が気になりますか?」

 その質問に、市はパニックになる。
そんな市に、側仕えは優しい笑顔を向ける。

 「大丈夫ですよ。
帝釈天様は優しいお方ですから。
身分で人を差別したり、偏見はもたれないお方です。
たとえ神としての記憶がなくても。
お市様がお気持ちを伝えれば、必ずご自分の気持ちを伝えてくれますよ。」

 「え?!・・、そ、そうでしょうか・・。」
 「それに・・・。」
 「な、なんでしょう?」
 「・・・いえ、なんでもありません。」
 「え、でも・・。」

 「さぁさぁ、お市様、そろそろお戻りになりませんと、あちらの世界で大変な事になりますよ?」

 「え? 確かに・・。」
 「では、また。」
 「はい・・、また・・?。」

 側仕えは手元にある呼び鈴を取り、それを鳴らせた。
すると市の体は徐々に透明になり、やがて消えた。
あちらの世界の転送されたのだ。
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