第208話 縁 静の場合 その3
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それもニヤニヤしながらである。
平九郎は
「さて、一之進、お
これでもお静と別れるか?」
「うぬ! 卑怯な!」
「なにが卑怯だ、だ。お前の負けだ。」
「だが、これではお前の家に迷惑がかかる!」
「ああ、それか、それなら心配はいらぬ。
お前、
それを受け取っておく。
当家は、それをあの狸家老に見せれば問題はない。」
「そうか、ではお静をお返し・」
「やだね、こんな
このじゃじゃ馬の
だから三行半は受け取るが、妹はこの家から盗んでいけ。」
「ありがとう! お兄様!」
「だがな、お静、いつでも帰ってきてよいぞ?」
「帰りませぬ!」
「そうじゃない、よく聞け、お静・・。
何か困ったことがあったなら、何でも良いから相談しに来い。
金策でも食べ物でも、着物でもなんでもよいぞ。
お前はたった一人の妹なのだから・・。」
「お兄さま・・。」
「分かったな。」
「はい。」
こうしてお静は一之進と一緒に
と言っても国内の山奥にマタギ夫婦として暮らすことになっただけであるが・・。
しかし最初のうちは、一之進では獲物どころか、薬草や山菜さえも採れなかった。
だが、人間、なんとかなるものである。
一年もすれば、マタギとして様になった。
一之進は罠や矢などで仕留めた獲物をもっては城下に降りた。
自分の素性がばれないように最新の注意をはらいながら。
曲げを切り、髭を伸ばし、熊皮をまとうと、マタギ以外には見えなかった。
そのため誰も一之進だと気がつく者はいなかった。
一之進は城下に行くと必ず
そして知った。
神一郎はこの国の
それを聞いて、一之進は納得した。
実際に自分であの技を見なければ、一之進も単なる噂だと考え信じなかったであろう。
だが、神一郎の消息はつかめずに月日だけが過ぎていった。
そんなある日、昔の同僚の姿を町で見かけたのだ。
変装をしていたが一之進には分かった。
相手の方は自分だと気がつかない。
どうやらこの同僚は無事に国外に脱出し、他国で生計を立てているようだ。
信頼のおける者であったため、後を付け人目の付かないところで声を掛けた。
その者は一之進の変わり様に
その者になぜこの国にいるのか聞くと、行商で来たそうだ。
ほとぼりも冷めてきており、簡単な変装さえすればもう大丈夫だと言っていた。
もうしばらくしたら変装もいらなくなるのでは、とも。
そして今は陰の国に店を構えているという。
一之進は世間話のついでに、自分が襲われて神一郎に助けられたことを話した。
すると以外な情報が、その者からもたらされた。
神一郎の素性を正確に掴んでいたのだ。
そして武術で名を馳せた神一郎について、情報機関でも素性を把握していないという。
それを知っている元同僚の能力に改めて敬意を払う。
しかし自分の素性を情報機関に掴ませないとは、いったいどうやって隠したのであろうか?
神一郎については分からない事だらけだ。
一番の驚きは、神一郎が今、神社の
一之進は元同僚と別れ自分の家に戻り、そのことを妻に話した。
妻も驚き、唖然とした。
「あ、あの方が・・宮司様? 本当に?」
「ああ、そうらしい。」
お静は怪訝な顔をする。
「どうした、お静?」
「お侍様ではなくて?」
「ああ、そうらしい。」
「でしたら、
一之進はため息を吐く。
「お前、まだあの人を
「はい。」
「はいって、お前・・・。」
「だって、あっという間に大勢を倒したのですよ、人にできますか、そんな事。」
「まあ、確かにな・・・。」
「とりあえず、あの方が人に化けた
あくまでもお静は神一郎を物の怪にしたいようである。
「あの方のいらっしゃる場所が分かってよかったですわ。
今はお礼をするようなものは手元になく、また買える状況ではありませぬ。
コツコツと二人でため、神一郎様の宮にお参りに行きお布施をしましょう。
ね、あなた。」
「そうだな、お前と二人でな。」
「はい。」
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猪座夫婦の山での暮らしは楽ではなかった。
だが幸いにも一之進には狩りの才能があったようだ。
貧乏ではあったが、二人が食べるものに困ることは無かった。
そしてそんな二人に平九郎は家来に多少の金子や、町人が着る衣服を届けさせたのだ。
大変ありがたいことであった。
だが、お静と一之進から平九郎を訪ねお願いをすることはなく、
二人は
そんなある日、お恵が山菜採りに行ったとき、山奥で赤子の声が聞こえてきた。
不思議に思い赤子の泣き声の場所に行くと、そこには赤子を抱いた女が倒れていた。
どうやら沢伝いに歩いていて足を滑らせたようだ。
とっさに赤子を
赤子に
だが、母親は息絶えていた。
「なんと
お静は赤子を抱き寄せ、どうしたものかと途方にくれた。
お静は赤子を連れ帰り、一之進にこのことを知らせた。
一之進はすぐさま赤子を発見した場所に駆けつけ、息絶えた女性の身元を確認する。
だが、持ち物には手がかりはなかった。
それに・・・
どうやらこの女性は
無理も無い、急峻な山奥に女性一人、赤子を抱えて国抜けなど死にに行くようなものだ。
だが、この女性はそうするしかなかったのであろう。
着ている服装は町人の物である。
だが、手を見て察した。
そう、町人にしては手がきれいすぎるのだ。
台所などで水仕事をしたことのない、きれいな手であった。
どうやら、どこか武家のお嬢様か、または奥女中のようだ。
それに連れていた赤子が、この女性の子だという感じがしない。
若すぎるのだ。
一之進は家に帰り、お静に赤子の事を相談する事にした。