第276話 解脱

文字数 2,522文字

 裕紀(ゆうき)は80歳となった。
子に宮司(ぐうじ)を譲り隠居生活をおくっている。

 日だまりで、幼い孫が枯れ葉を集めては蹴飛(けと)ばして遊んでいる。
その様子を裕紀はニコニコと見守る。

 小鳥がチチチチと泣き、空を飛んでいく。
それに気が付き、空を(あお)いだ。
抜けるような青さだ。

 「姫御子(ひめみこ)様は、今頃はどうしおられるのであろう?」

 そう言って、裕紀は微笑んだ。



 その頃、姫御子は引退をして神薙の巫女(かんなぎのみこ)と名乗っていた。
そう・・、昔につかっていた、懐かしい名前にしたのである。

 神薙の御子は()せっていた。
夏に風邪を引き、それから体調がよくなっては崩す事を繰り返していたのである。
神薙の巫女の側で、若い巫女が甲斐甲斐(かいがい)しく身の世話をやいていた。
若い頃の神薙の巫女に似た10代半ば位の巫女(みこ)である。

 その若い巫女に、神薙の巫女は声をかける。

 「朝霧(あさぎり)の巫女様、其方(そなた)はすこし休みなさい。」
 「何を(おっしゃ)います、私よりお祖母様こそ少しは寝て下さいませ。」
 「はぁ、私を呼ぶならお祖母様でなく神薙の巫女と呼びなさい。」
 「・・・はい。」
 「良いですか、あなたは姫御子である母の後を継ぐべきお方なのです。」
 「ですが・」
 「聞きなさい! 貴方の方が今は私より位が上なのですよ。」
 「・・・。」

 朝霧の巫女は切なそうな顔をして、神薙の巫女の顔を見た。
神薙の巫女はやれやれ、という顔をしてため息をつく。

 「朝霧の巫女様、すこし窓を開いてくれませぬか?」
 「でも・・、体に触りますよ、すこし風が冷とうございます。」
 「少しの間だけ、ね、お願い。」
 「・・・はい。」

 朝霧の巫女は窓を全開にし、神薙の巫女が外をみられるようにした。
神薙の巫女は窓を通して外を眺めた。

 「朝霧の巫女様、すみませぬが(しば)しの間、一人にさせて下さいませ。」

 その言葉に朝霧の巫女は、一瞬迷った。
体調が心配だったのだ。
だが・・、少しの間ならと(うなず)き、部屋を出て行った。

 神薙の巫女は暫し窓から見える外を見て、独り言(ひとりごと)(つぶや)く。

 「なんて綺麗な空かしら・・・。裕紀様はどうしているのでしょう。
たしか宮司をお子に譲って隠居したとか。
ああ・・会いたいな。
裕紀様・・・。
私は幸せを見つけましたよ、貴方様が言っていたように。
貴方様はいかがですか?」

 そう言って神薙の巫女は、若いままの姿でいる裕紀の顔を思い浮かべ微笑(ほほえ)んだ。




 神薙の巫女はその年の暮れ、身罷(みまか)った。
病との戦いで明け暮れた最後ではあったが、安らかな微笑みをたたえていたという。

 そして裕紀はというと、その後を追うように翌年の冬、旅だった。
裕紀もまた笑顔を浮かべていたという。



-----
 

 神薙の巫女は気がつくと、大きな川に流されていた。
三途の川である。
だが自分がそのような状態でいる事に気がついていない。

 ただ、広大な水の中に(うつぶ)せで浮いていることに気がついた。
それも急流に流されている事に。
慌てて息を止める。
このままでは(おぼ)れると思ったからだ。
(あお)向けになり空気を吸おうとしたが、水の流れが強く体の向きを変えられない。
我慢できなくなり、思わず息を()くと同時に水を吸い込んでしまった。

 だが・・。
()せることもなく、水をのんでも苦しくない。
水を飲んだという感覚ではなく、その水は空気のようであった。
水を飲み込んでいるというのではなく、普通に息ができるのだ。
不思議な水であった。

 苦しくならないと分かると余裕ができた。
そして考えた。
いったい此処(ここ)はどこなのだろう?

 水の量といい、流されていることから大河である事に間違いはないだろう。
だが、何がなんだか分からない。

 「私、確か病で床についていたはずなのだけど・・、ここは?」

 そう思った時である、突然川の流れが止まった。
いや止まったのではない。
自分が水に流されず、一定の場所から動かなくなったのだ。
水は流れているというのに・・。

 神薙の巫女は戸惑った。
だが、いつまでもこの格好のままでいるわけにもいかない。
おそるおそる手を水について立ち上がろうとした。
すると水が手を押し返し受け止める。

 「何、これ?」

 そう思いながら立ち上がった。
まるで水が畳みか、板敷きのようである。
しかし、確かに波を立てながら流れている川の水なのである。

 流れている水を見なければ、畳の上に佇んでいるかのように安定して立っている。
足下の水は流れているというのに。

 目線を上げると、目に入るのは広大な川だ。
両岸は遠すぎて見えない。
川の真ん中に、ポツンと立っている自分がいた。

 「いったいこれは?」

 そう思うと、今度は突然、目の前に(とびら)(あらわ)れた。
神薙の巫女はそれをしげしげと見る。

 目の前に扉だけが突然現れたのだ。
薄い扉の横を通り、扉の裏に行ってみる。
すると裏側も表と同じような形と色であった。
そう、一枚の扉が神薙の前に立っているのであった。

 「なんで突然に一枚の扉が川の上に現れるの?」

 神薙の巫女は扉を一周してから元の位置にもどる。
そして躊躇(ちゅうちょ)せずに扉を開いた。
なんとなく開けねばならないと思ったからだ。

 開けた扉の先は川が見えるのではなく、薄い(もや)がかかっている。
神薙の巫女は扉の中に入った。

 見渡す限り靄が一面を覆い尽くし(おおいつくし)ている。
その空間は部屋なのか、または野外のような場所なのかはわからない。
靄が全てを隠しているのである。

 ふと後ろを見ると扉が消えていた。

 「えっ?」

 扉が消えたことに驚いたが、恐怖はなかった。
扉が消えて当然だと、何故か受け止める。
そして前を向くと靄はもう無く、見渡す限り花が咲き乱れる野原であった。

 その時、突如(とつじょ)目の前に絶世の美女が現れた。
目の錯覚かと思い思わず目を手でこする。
だが、その女性は確かに目の前にいる。

 その女性が神薙の巫女に声をかけた。

 「お帰り、(いち)。」
 「え? 市? あ、あの・・あなた様は?」
 「ああ、そうであったな・・。」

 そういうと絶世の美女は人差し指を神薙の巫女の(ひたい)に軽くふれた。
すると静電気で打たれたような痛みが頭に走る。
それと同時に、めまぐるしい勢いで自分の過去がよみがえる。

 「どうじゃ? 思い出したか?」
 「・・・はい・・、奪衣婆(だつえば)様・・。」
 「うむ、お帰り、市。」
 「奪衣婆様!」

 そう言って神薙の巫女こと市は、奪衣婆の前にひざまずいた。
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