第211話 縁 市 その2

文字数 2,393文字

 (いち)は突然奪衣婆(だつえば)の自室に呼ばれた理由が分からず動揺していた。

 「あ、あの・・奪衣婆様、私をここにお呼びしたのは・・・。」
 「そう()くでない、まあ、茶でも一緒に楽しもうぞ。」
 「え?」

 「我が子、帝釈天(たいしゃくてん)はのう、滅多に顔を見せぬ。
親不孝だと思わぬか?
だから其方(そなた)が私の相手をしてたもれ。」

 「は、はぁ・・。」

 市は困惑顔で(うなず)く。
帝釈天は今、市と同じ世界に人間として暮らしている。
それも仏である記憶を一切消されて。

 記憶を一切消されているのに神界にたまに遊びに来いと奪衣婆は言っているのである。
人としての記憶しかない帝釈天であるというのに。

 天界に遊びに来いと言われ、それでは行きますね、と気軽に人が行けるわけがない。
そもそも人は天界がどこにあるかさえ知らないし、行き方を知らないのだ。

 もし行くとしたら死んでからであろう。
だが、仮に人は死んだとしても天界においそれと行けるものではない。
死んで行けるのは極楽などの世界であり、神が暮らす天界とは異なる。

 とはいえ解脱者ならば天界へは行けなくはない・・。
だが、解脱者といえど幽世(かくりょ)において厳しい修行を長年やり認められた者だけである。
それでも住むのは天界の入り口である。
それも入り口のさらに入り口なのだ。
神とはそれほど高次元の存在なのである。

 だから奪衣婆が遊びに来いと言うのは無理にも程がある。

 それでも奪衣婆が帝釈天に遊びに来いというのには訳がある。
帝釈天と奪衣婆は母子関係にあるからだ。
だから母としてはたまに息子とお茶でも飲みたいというは不思議な事ではない。

 ただこの二人は母子といっても、人の母子とは異なる。
帝釈天は奪衣婆の分身なのだ。
奪衣婆はそんな帝釈天に人が思う子への愛情、いや、それ以上の接し方をしているのである。

 そんな奪衣婆のもとに、今、市がいるのである。
そしてそこは、奪衣婆の自室であった。
市は奪衣婆のもとで働いていた時、たまに呼ばれこの部屋に通されたことがあった。
普通、市の身分ではあり得ない事だが、奪衣婆はそれほど市を気に入っていたのだ。

 奪衣婆は市を応接セットに誘い椅子に座らせた。
そして自分も向かいに座る。

 市は伽羅(きゃら)の香りがする奪衣婆の部屋に思わずため息を漏らす。
母の部屋に招かれたような穏やかで嬉しい気持ちに包まれたからだ。

 そんな市と奪衣婆のテーブルの上に、奪衣婆の側使え(そばつかえ)の者がお茶を置く。
高級茶葉の香が市の鼻孔をくすぐった。

 奪衣婆に勧められお茶とお菓子を市はしばらく楽しんだ。
おいしそうにお茶とお菓子を楽しむ市を、奪衣婆は見つめ微笑んでいた。

 しばらくしてから奪衣婆は市に話しかける。

 「どうじゃ、あちらの世界は?」
 「・・・どうと言われましても・・。」
 「帝釈天は優しくしてくれておるのか?」
 「え?!」

 奪衣婆の言葉に市はキョトンとした。

 「おや、お前を大事にしてくれてはおらぬのか?」
 「え?! あ、いや、大事にしてくださいます。」

 「そうか、そうか・・あの子はお前を大事にしておるか。」
 「はい。
人間界の世情と申しますか、互いに神に仕える者として。」

 「そうか、そうか、ふふふふふふ。」
 「だ、奪衣婆様?」

 「お前が人らしく恋いに落ちていて何よりじゃ。」
 「ま、待ってくださいまし!
帝釈天様に私はそのような気持ちなどございませぬ!」

 「おや? 私の息子では不足か?」
 「ふ、不足?! と、とんでもありません!!」

 言った直後、市は自分の言った事にはっとした。

 「あっ!! ち、違います!」
 「何が違うか?」

 「そ、その、私に恋愛感情はありません。
尊敬しております、帝釈天様を。
それに自分の立場をよく分かっております。
帝釈天様と私では不釣り合いです。」

 「不釣り合い?
人間界ではお前も帝釈天も人間ぞ?
不釣り合いも何もない。」

 「そ、それはそうですが・・・。
解脱(げだつ)さえ満足にしておりませぬ私では・・。」

 「市よ、解脱を言い訳にするでない。
それに、まだ其方(そなた)はそのような事を言っておるのか・・。」

 「え?」

 「分からぬのか・・・。」
 「・・・。」

 「まぁよい、そなたは私の元で働いておっであろう?」
 「はい・・。」

 市は怪訝(けげん)な顔をした。
奪衣婆様は何がいいたいのであろう?

 「私の元で働く者はすべて解脱者じゃ。」

 「それは存じております。
解脱しておらぬ私を、奪衣婆様は採用してくださいました。
感謝に()えませぬ。
ただ、解脱しておらぬ事は事実でございます。
たとえできたとしても私にはその資格がございませぬ。」

 「お前自身は解脱者を見てどう思った?」
 「え?」
 「私の元で働いていてどう感じておった?」
 「・・・私が解脱者に感じたことですか?」
 「そうじゃ。」

 「他の同僚はすべて解脱者でしたので・・・。
解脱者の方達と私とでは、特に違いは感じたことはございません。
ただ、私自身に違和感がありました。」

 「それは何じゃ?」
 「私だけ、なぜか三途の川で流されてくる霊の波動が見えることが不思議でした。」
 「ふむ。」
 「同僚に、この者の魂は鈍色(にびいろ)、あちらの魂は萌葱色(もえぎいろ)と言っても、色など無いと言われました。」
 「では何故(なぜ)お前に見えて、同僚である解脱者には見えぬと思う?」
 「え?・・、そのような事、私には分かりかねます。」

 「不思議な能力だと思わぬか?」
 「能力? 能力なのでございますか?」
 「なんじゃ、気がついておらなんだか?」

 「え? ええ・・。
ただ、この件については閻魔大王様から指摘された事はありましたが・・。」

 「そうか、閻魔大王様がのう・・。
まぁよい、天界にいる神はその能力を皆有しておる。」

 「え?!」

 「そして解脱は厳しい修行をしたからと言って、その能力を得られるものではない。」
 「?」
 「心が純粋に淘汰された者が得られる能力じゃ。」

 「そんな・・・、解脱しておらぬ私に何故そのような能力が・・。」

 市は動揺した。
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