第209話 縁 静の場合 その4

文字数 2,291文字

 一之進(いちのしん)は家に帰り、妻に報告をした。

 「お(しず)、どうやらこの子を連れた女は国抜け(くにぬけ)(こころ)みたようだ。」
 「国抜けですか?」
 「そうだ、何らかの事情で国抜けせねばならなかったのであろうな・・。」
 「哀れな・・。」
 「そうだな、そしてたぶん女はどこぞの武家の娘か、奥女中であろう。」
 「え? 町人ではないのですか?」
 「武家だ。」
 「そう・・ですか・・。」
 「だから、この赤子を親族に返そうとしても無駄だ。」
 「?」

 「国抜けをしようとしたくらいだ。
この子の親族を探そうとしても見つかるまい
もし、逆にこの赤子が生きていると分かれば、この赤子が狙われる可能性がある。
だから赤子を親族に返すのは(やめ)るべきだ。
そうなると赤子に残された道は三つ。
一つは赤子を、捨て子として役所に届ける。
一つは赤子を可愛そうだが、ここで楽にしてやる。
一つは赤子を儂らの子として育てる。
どうしたい、お前は?」

 お静はしばし考え込んだ。
そして

 「私の子として育てます。」
 「そうか、でも大変だぞ?」
 「覚悟しております。」
 「里にもらい乳をせねばならぬ。
あるいは山羊(やぎ)などの乳を買い与えねばならぬぞ。」

 「わかっております。」
 「そうか・・。」
 「はい。」

 「わかった、ではそうしよう。
そこでだ、お静・・。」

 「なんでございましょうか?」
 「もらい乳をするとなると、これから里の者と接する事が増える。
いままでは儂だけが里に降りて色々とやってきた。
だが、赤子がいるとなるとそうもいかぬ。
儂らの素性を隠すために偽名を使う必要がある。
それと、自分たちの偽の素性も作る必要があるだろう。」

 「はい・・。」

 「名前はどうする?」
 「名前ですか?」
 「そうだ。 儂はどうするかな・・。
うん、そうだ、猪座(いのざ)と名乗る事にしよう。」

 「何故にそのような名に?」

 「なに簡単なことだ。
儂はマタギだ。
今年は猪が多くとれたからのう。
それに武士を捨てた世捨て人よ。
世間の事など見たり知ったりする気もせぬ。
また、あの家老や殿など見たくもない。
ならば按摩(あんま)のように目を閉じて世間をみない生活であろう?」

 「はぁ・・、まぁ猪座の猪はいいとして、なぜ座なのですか?」
 「座頭というのを知っているか?」
 「いいえ?」

 「按摩の最上位の(くらい)だそうだ。
儂にぴったりであろう?」

 「なるほど、そういう事でございますか。
確かに貴方様は前はあの組織のトップでありましたから。
またあのような機関に返り咲き、トップになりたいのですか?」

 「まさか。」
 「それを聞いて安心しました。」
 「なんじゃ? お前は武家に戻りたくはないのか?」
 「戻りたくないと言えば嘘になります。
でも、あなた様が危ない仕事につかれるより今の生活の方が楽しゅうございます。」

 「そうか・・。」

 猪座は顔を静から少し背け顔を赤くした。
お静はそれを見て、微笑んだ。

 「そ、それでだ、えっと・・、そうであった! お前と赤ん坊の名はどうする?」
 「そうですね、私は・・・(とめ)、お留と呼んでくださいまし。
この子は(けい)、お恵ですね。」

 「留?」
 「はい、あなた様を私に()め置く、留めでございます。」

 「ぶほっ!!! ゴホゴホゴホ!!」

 猪座はむせ込んだ。
あまりにとんでのない名前を自分につけるからだ。

 「あなた! 大丈夫ですか!」

 「あ、ああ、だ、大丈夫だ・・。
だが、とんでもない名前にしたものだ。」

 「そうですか、私にぴったりの名前だと思いますが・・。」
 「まあ、お前がそれでよければ、そう呼ぼう。
で、お恵は?」

 「ここの山の幸に恵まれ丈夫に育つようにと。」
 「なるほど、赤子の名前は納得だ。」

 「あら? 私の名前は?」
 「・・・ま、まぁまぁかな?」
 「あなたの名前よりいいかと思いますよ?」
 「そうか?」
 「そうです。」

 猪座は納得できないという顔をした。

---

 お恵を家族に迎え、二人は幸せだった。

 だが、お恵が家にきてから三年後の事だ。
お留はその日に仕事を終え家に帰るなり高熱を出した。
そして翌日、あっけなくこの世を去ってしまった。
前日まではピンピンしていたというのに。
流行病(はやりやまい)であった。

 猪座は号泣(ごうきゅう)し、山野にその声がこだました。
泣いて泣いて声が涸れ、それでも目覚めては泣いて、また泣いては寝た。

 そんな猪座にお恵は目に涙をためて寄り添った。
猪座はそんなお恵の温もりを感じ、現実を受け入れた。

 そうだ・・、お留が死んだという意味さえ分からぬ幼子がここに居る。
母が亡くなり寂しいだろうに・・。
なのに、儂に寄り添い、泣き顔で抱きつき、儂を心配気に見つめてくる・・。
これでは死んだお留に儂が叱られる・・。

 猪座には泣いている暇などないのだ。
家には猪座とお恵の二人だけしかいないのである。
お恵の面倒を見てくれていた人は、お留は・・もういないのだ。

 猪座は、三歳になったばかりの子供の世話と猟におわれる生活となった。
だが、それがかえって猪座の寂しさを紛らわせたのである。

 お恵は風邪は引くことはあっても、大病にならずスクスクと育った。
猪座はお恵に読み書きを教え、山での暮らす知恵も少しずつ教え始めた。
そして今では10才となったお恵は、お留と引けを取らない位に働き者となっている。

ーーーー

 神一郎はこの話しを聞き、なんとも言えない気持ちになった。
できれば生きている内に、お静様と会っておけばよかったと。

 そして、自分に恩義を感じている猪座を蔑ろ(なえがしろ)にできないと感じた。
自分にできる事は、ここで世話になり猪座の自分に対する恩義を返してもらうのが良いと思った。

 だが・・。
猪座のような男が武士でいられない陽の国に、神一郎は憤り(いきどおり)を感じていた。
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