第30話1 そしてもう一人

文字数 639文字

 そしてもう一人。

 この場にはさっきから一言も発していない人物がいる。


 思えば道場で梅園さんに声をかけられたときから様子がおかしかった。

 いつもの明るくてあたたかくて、それでいて少し抜けているような愛嬌のあるところが姿を潜め、感情の起伏が失われたような状態だった。


 不動の話からすると、ここに僕が来る前に何かよくないことがあったのは事実だろう。

 そしてそれが少なからず彼女たちの心の傷になっているんじゃないだろうか。

 正直、澪のこういう姿は見ていたくなかった。

 隣にいてくれるとほっとできるような人でいて欲しかった。


 僕がこの世界に来て最初に会った人。

 何もわからず戸惑う僕に気を使ってくれ、疲れた体を癒してくれ、立ち止まっていた僕の手を引いて、この世界での一歩目を踏ませてくれた人。


 淡渕澪という人物は、僕の中でそれだけ大きな存在になっているのだから。

澪。もういいよ。

ここには僕たち以外に誰もいないから

……

 表情は変わらない。

 まだ梅園さんと深藍の君が立ち去った方向を無言で見ている。

大丈夫。今は気を張る必要はないよ
 僕の言葉に、澪は小さく「ほぅ」と息を吐いた。
…………ごめんね

 何をと聞き返してしまえば、澪は謝った理由を口にしなければならなくなる。

 誰にだって触れてほしくないデリケートなところはあるだろう。

 もちろん、僕にだってある。

 この言葉は二人の間にあった空白を埋めるためのものなのだ。

 だから僕は無言でうなずくだけでいい。

………………ありがと
 それだけでよかった。
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登場人物紹介

不吹清正(ふぶき・きよまさ)

本作の主人公で元の世界ではゲームクリエイターをしていたが、自分の作ったゲームによく似た世界へ微妙に若返りつつ転移してしまう。

好奇心旺盛な性格で行動より思考を優先するタイプ。

連れ合いの機巧姫は葵の君。

葵の君(あおいのきみ)

主人公の連れ合い(パートナー)である機巧姫。髪の色が銘と同じ葵色で胸の真ん中に同色の勾玉が埋め込まれている。

人形としては最上位の存在で、外見や行動など、ほとんど人間と変わりがない。

主人公のことを第一に考え、そのために行動をする。

淡渕澪(あわぶち・みお)

関谷国の藤川家に仕える知行三百石持ちの侍で操心館に所属する候補生の一人。水縹の君を所有しているが連れ合いとして認められてはいない。

人とは異なる八岐と呼ばれる種族の一つ、木霊に連なっており、癒しの術を得意とする。また動物や植物ともある程度の意思疎通ができる。

大平不動(おおひら・ふどう)

操心館に所属する候補生の一人で八岐の鬼の一族に連なる。

八岐の中でも鬼は特に身体能力に優れており、戦うことを至上の喜びとしている。不動にもその傾向があり、強くなるために自己研鑽を怠らない。

直情的で考えるより先に体が動くタイプで、自分より強いと認めた相手に敬意を払う素直さを持つ。

紅寿(こうじゅ)

澪に仕える忍びで、八岐に連なる人狼の少女。オオカミによく似たケモノ耳と尻尾を有している。

人狼の身体能力は鬼と並ぶほど高く、その中でも敏捷性は特に優れている。忍びとしても有能。

現在は言葉を話せないもよう。

翠寿(すいじゅ)

澪に仕える忍びで、紅寿の妹。人狼特有のケモノ耳と尻尾を有する。

幼いながらも誰かに仕えて職務を果たしたいという心根を持つがいろいろと未熟。

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