第30話1 そしてもう一人
文字数 639文字
そしてもう一人。
この場にはさっきから一言も発していない人物がいる。
思えば道場で梅園さんに声をかけられたときから様子がおかしかった。
いつもの明るくてあたたかくて、それでいて少し抜けているような愛嬌のあるところが姿を潜め、感情の起伏が失われたような状態だった。
不動の話からすると、ここに僕が来る前に何かよくないことがあったのは事実だろう。
そしてそれが少なからず彼女たちの心の傷になっているんじゃないだろうか。
正直、澪のこういう姿は見ていたくなかった。
隣にいてくれるとほっとできるような人でいて欲しかった。
僕がこの世界に来て最初に会った人。
何もわからず戸惑う僕に気を使ってくれ、疲れた体を癒してくれ、立ち止まっていた僕の手を引いて、この世界での一歩目を踏ませてくれた人。
淡渕澪という人物は、僕の中でそれだけ大きな存在になっているのだから。
表情は変わらない。
まだ梅園さんと深藍の君が立ち去った方向を無言で見ている。
何をと聞き返してしまえば、澪は謝った理由を口にしなければならなくなる。
誰にだって触れてほしくないデリケートなところはあるだろう。
もちろん、僕にだってある。
この言葉は二人の間にあった空白を埋めるためのものなのだ。
だから僕は無言でうなずくだけでいい。