第5話1 しんとしている

文字数 861文字

 しんとしている。

 何もない。

 何も見えないし、気配も感じられない。

 静かで凪いでいる。

 心の揺らぎもなく、体の感覚もない。


 ――無。


 一つの境地。

 究極の一。

 すべてが満たされており、足りぬものは存在しない。

 それが自分であり、世界である。

 世界と自分との間に垣根もない。

 違いはなく同一である。

 暗闇に塗りつぶされている。

 すべてを飲み込み、不変で、不満はなく、平等で、一つである。


 始原(しげん)の色――純黒(じゅんこく)


 目を開けよう。

 そう思った瞬間、それがあるのがわかった。

 そこが目であり、まぶたであるのがわかる。

 力を込める。

 瞳の形に膨らんだまぶたがかすかに震える。

 単一だった世界に異なるものが生まれる。

 この瞬間までは一つしかなかった。それでよかった。

 しかし、今は違う。

 それ以外のものがあった。


 もう一つの始原の色――真白(ましろ)


 満たされていたものが欠けてしまった。

 何か大切なものが失われてしまった。

 もう戻ってこない。

 どれだけ切望しようと、研鑽を積もうと、元に戻ることはない。

 それがわかってしまう。

 小波が立つように黒が震える。

 消えていく。

 徐々に黒が失われていき、白が広がっていく。

 その白から赤紅(あかべに)真青(まあお)が生まれる。

 さらに黄丹(おうに)藤黄(とうおう)萌黄(もえぎ)翡翠(ひすい)青緑(あおみどり)紺青(こんじょう)深紫(こきむらさき)牡丹(ぼたん)といった色が生じる。

 次々に色が生まれていき、黒は見えなくなってしまった。


 色が世界にあふれ出す。


 同時に自らの身体に力がみなぎるのがわかる。

 戦う力が自分の内側にあるのがわかる。

 人にはない圧倒的な力。

 大岩を持ち上げ、大木をへし折る膂力(りょりょく)、川を一跨ぎできる跳躍力。

 敵を打ち滅ぼす力がある。


 カッと目を開いて世界を見る。

 上空から見下ろす大地。

 だが先ほどのように風のせいで顔をそむける必要はなかった。

 恐怖心もない。

 不思議と心は凪いでいた。

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登場人物紹介

不吹清正(ふぶき・きよまさ)

本作の主人公で元の世界ではゲームクリエイターをしていたが、自分の作ったゲームによく似た世界へ微妙に若返りつつ転移してしまう。

好奇心旺盛な性格で行動より思考を優先するタイプ。

連れ合いの機巧姫は葵の君。

葵の君(あおいのきみ)

主人公の連れ合い(パートナー)である機巧姫。髪の色が銘と同じ葵色で胸の真ん中に同色の勾玉が埋め込まれている。

人形としては最上位の存在で、外見や行動など、ほとんど人間と変わりがない。

主人公のことを第一に考え、そのために行動をする。

淡渕澪(あわぶち・みお)

関谷国の藤川家に仕える知行三百石持ちの侍で操心館に所属する候補生の一人。水縹の君を所有しているが連れ合いとして認められてはいない。

人とは異なる八岐と呼ばれる種族の一つ、木霊に連なっており、癒しの術を得意とする。また動物や植物ともある程度の意思疎通ができる。

大平不動(おおひら・ふどう)

操心館に所属する候補生の一人で八岐の鬼の一族に連なる。

八岐の中でも鬼は特に身体能力に優れており、戦うことを至上の喜びとしている。不動にもその傾向があり、強くなるために自己研鑽を怠らない。

直情的で考えるより先に体が動くタイプで、自分より強いと認めた相手に敬意を払う素直さを持つ。

紅寿(こうじゅ)

澪に仕える忍びで、八岐に連なる人狼の少女。オオカミによく似たケモノ耳と尻尾を有している。

人狼の身体能力は鬼と並ぶほど高く、その中でも敏捷性は特に優れている。忍びとしても有能。

現在は言葉を話せないもよう。

翠寿(すいじゅ)

澪に仕える忍びで、紅寿の妹。人狼特有のケモノ耳と尻尾を有する。

幼いながらも誰かに仕えて職務を果たしたいという心根を持つがいろいろと未熟。

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