36、ポエニ戦争(15)

文字数 1,138文字

ティキヌスの戦い、トレビアの戦いと連敗を重ねたローマの元老院は、紀元前217年、執政官にガイウス・フラミニウス、グナエウス・セルウィリウス・ゲミヌスの両名を選出し、新たに4個軍団50,000名を動員した。
作品集には下の画像から入ってください。
負けてもすぐに次の執政官を選出し、新たに50,000人もの兵を動員できるとは、ローマはまだまだ余裕がありそうだ。
いや、ローマも必死だったに違いない。ハンニバルの南下進路が予想できなかったため、両執政官はそれぞれ2個軍団25,000名を率いて、セルウィリウスはアレミヌム(現リミニ)ヘ、フラミニウスはアレティウム(現アレッツォ)へ向かった。
いろいろな人の名前や地名が出てきて、私はもうわけがわからなくなっています。
カルタゴ軍はアペニン山脈を越えてフロレンティア(現フィレンツェ)に到着し、ペルシア(現ペルージャ)へ向けて南下した。カルタゴ軍の動きを察知したフラミニウスは、セルウィリウスへ合流の要請を出すとともに、アレティウムを出陣してカルタゴ軍を追った。フラミニウスの意図は、セルウィリウスの軍団とカルタゴ軍を挟撃することにあった。しかし、ハンニバルはこれを予測し、逆に各個撃破の機会を狙っていた。
確かに敵の数が50,000と25,000では大変さが全然違います。
トラシメヌス湖畔に到達したハンニバルは、ただちに部隊を展開させた。トラシメヌス湖の北岸を通る街道は、丘陵の間を通る道で迎撃と埋伏に最適な地形だった。ハンニバルは湖畔の出口側へ重装歩兵を配置し、そこから西へ軽装歩兵、ガリア兵、騎兵の順番で丘陵の陰に隠れるように配置した。重装歩兵が敵の進軍を阻止し、騎兵が退路を遮断、軽装歩兵とガリア兵が敵主力を攻撃して湖へ追い落とすのがハンニバルの意図であった。
本当によく考えています。
余が参加したナバス・デ・トロサの戦いはそのような戦闘ではなかった。各国の王と騎士団が集まったが、ナバラ王サンチョ7世の突撃で勝利は決定的になった。
戦争では敵とどう戦うか、作戦が重要になってくるのですね。私の父ペドロ4世はカスティーリャのペドロ1世と『2人のペドロの戦い』と呼ばれる戦争に参加しました。戦争はペストのために決着がつかず、17年間もだらだらと続きました。もし私が戦争などに参加して勝利を掴んだら、不真面目王などというありがたくない名前はもらわずにすんだかもしれません。でも私は戦争には行かず、父と対立ばかりしていました。
今思えば余はあまりにも戦術というものを知らずに反乱を起こしてしまった。もしそういうことを知っていたならば、余は父上の力を理解して反乱など起こさなかったであろう。
トラシメヌス湖畔の戦いはほぼハンニバルの思い通りに展開した。
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