113、アルキメデス(1)
文字数 1,258文字
アルキメデスの人生の記録は、彼が没してから長い時間が過ぎた後に古代ローマの歴史家たちによって記録されたため、全容を掴めていない。アルキメデスの友人のヘラクレイデスも伝記を書き残したといわれるが、失われてしまい細部は伝わっていない。しかし、没年については例外的に、正確にわかっている。これは、彼がローマ軍のシラクサ攻囲戦の中で死んだことが、彼の死に関する故事の記述からわかっているからである。彼の生年は、死んだ時の年齢から逆算して求められたものである。
シラクサ攻囲を記したポリュビオスの『Universal History』(普遍史)には70年前のアルキメデスの死が記されており、これはプルタルコスやティトゥス・リウィウスが出典に利用している。この書ではアルキメデス個人にも若干触れ、また街を防衛するために彼が武器を製作したことも言及している。
アルキメデスは紀元前287年、マグナ・グラエキアの自治植民都市であるシケリア島のシラクサで生まれた。この生年は、ビサンチン時代のギリシアの歴史家イオニア・セツィスが主張した、アルキメデスは満75歳で没したという意見から導かれている。『砂の計算』の中でアルキメデスは、父親を無名の天文学者「ペイディアス」と告げている。
『砂の計算』あるいは『砂粒を数えるもの』はアルキメデスの著作の中では内容が最も簡易的で、宇宙に関する当時の知識を仮定して、宇宙を埋め尽くすのに必要な砂粒の個数を概算したもので、シラクサの王ゲロン(ヒエロン2世の息子)に宛てた形式を取っています。
プルタルコスは著書『対比列伝』にて、シラクサを統治していたヒエロン2世の縁者だったと記している。アルキメデスは、サモスのコノンやエラトステネスがいたエジプトのアレクサンドリアで学問を修めた可能性がある。アルキメデスはサモスのコノンを友人と呼び、『幾何学理論』(アルキメデスの無限小)や『牛の問題』にはエラトステネスに宛てた序文がある。