81、ポエニ戦争(41)

文字数 1,201文字

今日からはデルトサの戦いについて説明しよう。
作品集には下の画像から入ってください。
デルトサの戦いは紀元前215年春に、エブロ川の南岸のデルトサ(現在のトゥルトーザ)近くで行われたカルタゴと共和政ローマ間の戦闘である。
トゥルトーザは現在、スペインのカタルーニャ州タラゴナ県内にあります。
スペインで行われた戦いならばハンニバルはいないですね。
ハンニバルのいない場所での戦いなら勝敗は予測できる。戦争は優れた指揮官がいるかどうかで勝敗はほぼ決まる。戦争だけでない。国の運命も優れた王がいるかどうかで左右される。不真面目王とか怠慢王などと渾名がつくような王が統治していたら、国の財政は傾き・・・
ペドロ2世、私とヴェンツェルの悪口を言っているのですか?
悪口ではない。事実を言ったまでだ。
話が脱線したようなので元に戻そう。デルトサの戦いでのローマ軍の指揮官はグナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウスとプブリウス・コルネリウス・スキピオでカルタゴ軍の指揮官はハスドルバル・バルカだ。
また覚えにくい名前がたくさん出てきた。
グナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウスはプブリウス・コルネリウス・スキピオの兄で、ハスドルバル・バルカはハンニバル・バルカの弟です。
この頃の状況を簡単に説明しよう。カンナエの戦いの後、カンパニア、サムニウム、ルカニア、アプリアおよびブルティウムの幾つかの都市はカルタゴに降伏した。
みんなイタリア南部の州や都市ですね。
ハンニバルは紀元前216年から紀元前215年にかけて、カルタゴとの連絡が容易になるように、ネオポリス(現在のナポリ)クーマエ、ノラといった湾岸都市を攻撃したが、何れも失敗した。
海に出るためには湾岸都市が重要になってくるわけですね。
ハンニバルの弟であるマゴ・バルカの率いる分遣隊は、ルカニアとブルティウムの反乱を鎮圧した。ブルティウムの軍の指揮をハンノに委ね、マゴは援軍要請のためにカルタゴに出帆した。
ハンニバルは兄弟が仲が良く協力しているのか。
ローマは何回か軍を出動させたが、ハンニバルとの野戦は避け、その同盟軍を可能な場合にのみ攻撃する戦略をとっていた。
カンナエの戦いで負けたことがトラウマになって、ローマはもう積極的に攻撃を仕掛けることをしなくなったようです。
なんだ、面白くない。お互い様子を探り合ってばかりいる。
独裁官(ディクタトル)マルクス・ユニウス・ペラはラティウム南方でローマに対する直接攻撃に備えていた。マルクス・クラウディウス・マルケッルスはノラでハンニバルと戦い、またネオポリスがカルタゴに付くのを阻止した。独裁官副官のセンプロニウス・グラックスは三番目の軍を率いてルカニアに滞陣していた。また幾つかの軍団が、北イタリアのガリア人の反乱に備えていた。
ローマ軍は備えてばかりいるではないか。
ハンニバルの行動が予測がつかない以上、備えるしかないのであろう。
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