17、ポエニ戦争(5)

文字数 1,250文字

さて、ポエニ戦争について続きを話すことにしよう。
やっとハンニバルの話に戻ったか。余は待ちくたびれた。
作品集は下の画像から入ってください。
ハンニバルの父ハミルカルは紀元前237年に傭兵の反乱の鎮圧に成功した後、ヒスパニアに出征してカルタゴ政府からの干渉を受けない自らの王国を築く決意をした。
ヒスパニアですか?
フェニキア語で「隠れた土地」や「ウサギの土地」を意味する言葉に由来するらしい。スペインという国名もこのヒスパニアからきている。
「隠れた土地」や「ウサギの土地」か。アラゴン王としてはあまりうれしくない呼び名である。
ハミルカルは息子ハンニバルも連れてヒスパニアへ向かった。8年間の遠征を経て彼はヒスパニアでの支配を確立しようとしつつあり、拠点としてカルタゴ・ノウァを建設した。
カルタゴ・ノウァですか?
現在はスペイン・ムルシア州のカルタヘナです。1245年にカスティーリャ王国に征服され、1296年にアラゴン王国の手に渡りましたが、1305年にカスティーリャ王国に返却されました。
ハミルカル・バルカはカルタゴ・ノウァの建設途中に戦死した。紀元前228年、53歳の時でハンニバルはこの時19歳だった。
8年間の遠征の後ということは、ハンニバルは父について遠征に行ったのは11歳より前ですね。
息子と一緒に遠征に行けるとはうらやましい。余は息子ハイメが3歳の時に人質のように差し出して5歳の時には戦死している。親子の交流などほとんどなかった。
ハミルカルの死後は娘婿のハスドルバルが後を継いだ。ハスドルバルはカルタゴ人によく見られる名前で「バアルこそ我が救い」という意味である。
都市国家ウガリットは紀元前1200年に破壊されたのに、バアル神への信仰は続いていたということか。しかも救いという意味を名前に込めているので、たくさんいる神の1人ではなく特別な神として信仰されていたようだ。
ハミルカルの死後、ハスドルバルは卓越した政治的・外交的手腕を発揮し、カルタゴ人とイベリア人との融和に努めた。
ハミルカル、そしてハスドルバルは将軍というだけでなくヒスパニアの開拓者にもなっていたようです。
カルタヘナにあるハスドルバルの像です。ハスドルバルはかなり美男子でもあったようです。
紀元前227年頃にカルタゴ・ノウァを建設したハスドルバルは支配領域を次々広げ、その指揮を若いハンニバルに委ねて経験を積ませた。
若い時のハンニバルは父ハミルカルだけでなく義理の兄ハスドルバルからも経験を積ませてもらえるという恵まれた立場にいたわけか。
紀元前226年、ハスドルバルはローマと条約を締結し、その勢力圏はエブロ川を北限とすることが定められた。この条約はカルタゴではなくハスドルバル個人と結ばれていた。
ハスドルバルはカルタゴから離れてヒスパニアで独自の権限を持っていたということですか?
それはよくわからない。紀元前221年にハスドルバルは暗殺され、26歳のハンニバルがヒスパニアの支配者の地位を受け継いだ。今日の授業はここまでにしよう。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色