34、ポエニ戦争(14)
文字数 1,430文字
サグントゥム包囲戦に勝利したハンニバルは一旦軍を解散し、翌紀元前218年夏にローマへの侵攻を開始した。その夏の間にエブロ川以北のイベリア人の土地を平定しガリアに入った。この土地の防衛のためにハンノに兵11,000を与え、また忠誠心の疑わしい兵10,000を解散して故郷に戻した。
執政官プブリウス・コルネリウス・スキピオは4個軍団(ローマ歩兵8,000、同盟国歩兵14,000、ローマ騎兵600、同盟国騎兵1,600)を指揮し艦船60隻の護衛を受けてイベリア半島に向かうように命令されていた。しかし北イタリアのボイイ族とインスブル族が反乱を起こしてローマ植民都市を攻撃したため、スキピオの兵はこの鎮圧に転用され、イベリア遠征用には新たな軍団が編成されることとなり、スキピオの出発は遅れた。
スキピオがマッシリア(現在のマルセイユ)に上陸しローヌ川に偵察隊を派遣した。偵察隊から報告を受け、スキピオはハンニバルを追ったが、カルタゴ軍はすでにアルプスに向かっていた。スキピオはマッシリアに戻り、その軍を兄のグナエウス・コルネウス・スキピオ・カルウスに委ね、イベリアに向かうように命令した。そしてスキピオ自身はイタリアに戻った。
キッサの戦いは紀元前218年秋にギリシャ植民都市であるタラッコ(現在のタラゴナ)近郊で行われた。カルタゴ軍の指揮官はハンノで戦力は歩兵10,000と騎兵1,000、ローマ軍の指揮官はグナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウスで歩兵が20,000、騎兵が2,200であった。
ハンノはタラッコの北のキッサと呼ばれる場所まで進みここでローマ軍と戦闘を行った。巧みな機動戦や待ち伏せ等は無く、両軍は正面から激突した。兵力はローマ軍のおよそ半分であり、ハンノは兵6,000を失って敗退した。さらに、ローマ軍はカルタゴ軍の野営地を襲撃し、ハンノ自身を含んだ捕虜2,000を得た。