26、ポエニ戦争(10)

文字数 1,492文字

紀元前218年9月、ハンニバルはアルプス山脈を越えて、ガリア・キサルピナに到着した。
作品集には下の画像から入ってください。
ハンニバルはアルプス越えで激しく疲弊した自軍を休ませ、自身はガリア・キサルピナの現地部族を懐柔し、自軍に編入しようと努めた。
え、会ったばかりの現地部族をいきなり味方にしようとしたのですか?
余はそのような戦い方はしたことがない。
しかし、ガリア人はローマと敵対していたものの、多くの部族に分かれて長年争いをくりかえしておりまとまりがなく、戦う前から疲弊していたカルタゴ軍に味方しようとする者は少なかった。このためハンニバルはローマ軍を撃破して力を誇示しなければ、ガリア人を味方に引き入れることはできないと判断していた。
紀元前の戦いは国や宗教の支えがないから、強くなければ味方は得られないのですね。
余がアラゴン王位を継いだ時、修道院育ちで政治に疎く戦う方法も知らなかったために貴族達に馬鹿にされ、各地で反乱が起きた。
ローマに戻ったスキピオは、新たに動員した2個軍団を率いて北上、ハンニバルも敵を求めて南下した。ティキヌス川付近で両軍は接近し、互いに野営地を築いた。
いよいよハンニバル対スキピオの戦いが始まるのか。
私は本格的な戦争は経験したことがないので、こういう話は苦手です。
スキピオは野営地で兵を集め、演説した。彼は、ローヌ川での前哨戦でローマ軍が大勝利を収めた事、23年前にローマはカルタゴに勝利しているから敵は敗者の残党である事、カルタゴ軍はアルプス越えで3分の2に減り、しかも大きく疲労している事などを挙げ、士気を高めた。
やっぱりスキピオはローマ人だから演説がうまいですね。
ラテン語は演説のための言葉と言ってもよい。共和制の時代のローマでは大衆の心をつかむ演説のできる者が出世した。ラテン語は同じ言葉や音を繰り返し、耳で聞いて心地よく熱狂できる言葉として発展した。
一方ハンニバルは、アルプス山中で捕虜にしたガリア人に、勝てば自由と武器、馬を与えると約束し、互いに決闘をさせた。ガリア人は山越えで非常に衰弱していたが、全員が決闘を希望した。カルタゴ軍は勝った者を讃え、敗れて死んだ者はより大きく讃えた。
捕虜に決闘をさせるとは随分思い切ったことをしますね。
思い切ったことをするからこそ、不利な状況を大きく変えることもできる。余が『ウエスカの鐘』の粛清を行った後、反乱は起きなくなった。
ハンニバルは決闘で敗れて死んだ者を勝った者以上に褒め称え名誉を守った。こうすることでガリア人は例え負けて死んでも名誉は守られると考え、進んで決闘を行った。十字軍の戦士は途中で死んでも魂が救われると信じていたが、ハンニバルが行ったことも同じ効果がある。
死んでも名誉が守られたり魂が救われると信じているからこそ死を恐れずに勇敢に戦うことができるのですね。
決闘が終わるとハンニバルは演説を始め、自軍の前には大河、左右に海、後ろにはアルプスと、いま決闘した者たちと同じように逃げ場はなく、勝つか死ぬかしか無いこと、しかし勝てばローマの全てを手に入れられる事、戦争に勝利した暁には子の代まで税を免除し、土地や金貨を与える事などを説いた。さらに兵士付きの奴隷のうち、戦う事を望む者は自由民とし、彼ら1人につき2人のローマ人奴隷を与えると約束した。カルタゴ軍の士気は大いに上がった。
ハンニバルという人は自分が戦いに強いだけでなく、兵士にどのような報酬を与えて士気を高めたらいいか、よくわかっている人だったのですね。私はアラゴン王として功績を残せませんでしたが、こういう話を聞くと勉強になります。
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