45、ポエニ戦争(20)
文字数 1,294文字
アゲル・フレルヌスの戦いは第二次ポエニ戦争中の紀元前217年に発生した共和制ローマとカルタゴとの小規模戦闘である。トラシメヌス湖畔の戦いに勝利したハンニバルは南進してカンパニアに達し、ヴォルトムス川(現在のヴォルトゥルノ川)沿いの肥沃な平原(アゲル・フレルヌス)に入った。アゲル・フレルヌスの北側は山地であった。
ハンニバルがなぜ直接ローマには向かわずにイタリア南部へ侵攻したかについては、理由はよくわかっていない。事実としてハンニバル率いるカルタゴ軍は南東に向かってペルシア(現在のペルージャ)を経由してウンブリアへと入った。
共和制末期・帝政初期の歴史家であるティトゥス・リウィウスはラテン人植民都市であるスポレンティウム(現在のスポレート)包囲戦に関しての記述があるが、ポリュビオスはそれには触れておらず、おそらくは小規模なカルタゴ軍襲撃部隊がスポレンティウムで問題を起こした程度と推定されている。
ハンニバルに話を戻すと、トラシメヌス湖畔の戦いののち、農村部を略奪した後、アドリア海沿岸へと出て、10日後にはヘリタに到着した。ここでハンニバルは壊血病に苦しんでいた兵を休息させ、ローマ兵から奪った装備でリビュア兵の武装を整え、現地のワインを軟膏代わりに使って騎兵の馬を健康な状態へと戻した。
壊血病というのはビタミンCの不足が数週間から数か月続くと症状が出て、皮膚や粘膜、歯肉からの出血や歯の脱落、創傷治癒の遅れ、貧血、感染への抵抗力の減少などが起こります。特に大航海時代の船乗りは長期保存のきくビタミンCの不足した食品ばかり食べ、壊血病が蔓延しました。