45、ポエニ戦争(20)

文字数 1,294文字

今日からはアゲル・フレルヌスの戦いについて話をしよう。
作品集には下の画像から入ってください。
このアゲル・フレヌルスの戦いについては、戦闘の規模としてそれほど大きくはないのですが、かなり詳しく書いてありました。
アゲル・フレルヌスの戦いは第二次ポエニ戦争中の紀元前217年に発生した共和制ローマとカルタゴとの小規模戦闘である。トラシメヌス湖畔の戦いに勝利したハンニバルは南進してカンパニアに達し、ヴォルトムス川(現在のヴォルトゥルノ川)沿いの肥沃な平原(アゲル・フレルヌス)に入った。アゲル・フレルヌスの北側は山地であった。
カンパニアというのはナポリなどがある、ローマより南の地方ですよね。トラシメヌス湖畔の戦いはまだローマより北で行われていたけど、その後でハンニバルは直接ローマに向かわずに南へ行ったのですか?
ハンニバルがなぜ直接ローマには向かわずにイタリア南部へ侵攻したかについては、理由はよくわかっていない。事実としてハンニバル率いるカルタゴ軍は南東に向かってペルシア(現在のペルージャ)を経由してウンブリアへと入った。
ウンブリアまで来ればローマはもうすぐ近くです。
共和制末期・帝政初期の歴史家であるティトゥス・リウィウスはラテン人植民都市であるスポレンティウム(現在のスポレート)包囲戦に関しての記述があるが、ポリュビオスはそれには触れておらず、おそらくは小規模なカルタゴ軍襲撃部隊がスポレンティウムで問題を起こした程度と推定されている。
古代ローマには何人もの優れた歴史家がいて記録を残している、だからポエニ戦争の時の様子も詳しくわかるのですね。
記録がたくさん残っていても、それに興味を持って伝えようとする者がいなければ、歴史はほとんど伝わらない。
そうですね。アラゴンの歴史についてはほとんど知られていないです。
そしてただ歴史にあったことをそのまま伝えても興味を持ってもらえるとは限らない。だからこそ歴史小説というジャンルでフィクションを混ぜることも必要なのではないか?
せっせとフクションを書いているのですが、まだまだ日本ではアラゴン王家の知名度は高くないです。
ハンニバルに話を戻すと、トラシメヌス湖畔の戦いののち、農村部を略奪した後、アドリア海沿岸へと出て、10日後にはヘリタに到着した。ここでハンニバルは壊血病に苦しんでいた兵を休息させ、ローマ兵から奪った装備でリビュア兵の武装を整え、現地のワインを軟膏代わりに使って騎兵の馬を健康な状態へと戻した。
壊血病というのはビタミンCの不足が数週間から数か月続くと症状が出て、皮膚や粘膜、歯肉からの出血や歯の脱落、創傷治癒の遅れ、貧血、感染への抵抗力の減少などが起こります。特に大航海時代の船乗りは長期保存のきくビタミンCの不足した食品ばかり食べ、壊血病が蔓延しました。
戦争は軍隊の強さだけでなく、食料や病気の心配もしなければならないから、本当に大変そうです。
紀元前の時代、ビタミンCの不足で病気になるということはわからなくても、新鮮な食料が必要ということはわかっていて、食料を手に入れるために行く先を変えるということもあったと思います。
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