95、ポエニ戦争(47)

文字数 1,182文字

第二次ノラの戦いが期待外れになってしまったようなので、もう少しポエニ戦争の話を続けて今日からカルヌスの戦いについて説明する。
作品集には下の画像から入ってください。
カルヌスの戦いは第二次ポエニ戦争中の紀元前215年にサルディニア人の反乱を支援するために、カルタゴ軍がサルディニア島に遠征し、ローマ軍と戦った戦闘である。
サルディニア島はどこにある?
ローマの西の地中海の2つの大きな島のうち南がサルディニア島で北がコルシカ島です。
戦略的状況としては、カンナエの戦いの敗北以後、イタリア南部のいくつかの都市はローマとの同盟から離脱し、カルタゴ側についていた。ハンニバルの軍はカンパニアで活動しており、ハンノが率いる別のカルタゴ軍ブルティウム(現在のカラブリア州)で活動していた。ローマもいくつかの軍を出動させてはいたが、ハンニバルとの直接戦闘は避けて、可能な時にその同盟軍を攻撃していた。
カンナエの戦い以後、南イタリアはカルタゴ軍が圧倒的に優位だったわけか。
イベリア半島では、ハンニバルの弟であるハスドルバル・バルカがエブロ川河口の海戦の敗戦以来、スキピオ兄弟との小競り合いを繰り返していた。紀元前216年になると、カルタゴ元老院はハスドルバルに援軍を送り、イタリアへ侵攻するように命じた。アフリカでは、やはりハンニバルの弟であるマゴ・バルカが歩兵12,000、騎兵1,500および戦象20からなる軍を率い、ハンニバルに合流するように命令されていた。
ハンニバルの弟ハスドルバルはイベリア半島、マゴはアフリカにいてそれぞれ軍を率いていたのが、イタリアのハンニバルと合流するように命じられたわけですね。
この時代は兄弟が仲良く一緒に戦っていたのか。
ローマは紀元前237年以来、サルディニアの原住民としばしば衝突していた。紀元前216年には反乱の機は熟していた。サルディニアにはローマ軍一個軍団が駐屯していたが、疾病で戦力は低下していた。法務官クィントゥス・ムキウス・スカエウォラもまた病気を得ていた。ローマからの給与も補給も不規則であり、サルディニアの部族長であるハンプシコラはカルタゴに援助を求めた。
ローマの勢力が衰えた時に、サルディニア人は反乱を計画してカルタゴに援助を求めたというわけですね。
カルタゴはハンノという名の軍人を送り、反乱の金銭的援助を行ったが、同時にサルディニア遠征軍としてマゴに与えたのと同程度の軍を編成した。この遠征軍の指揮は「禿のハスドルバル」とマゴ(ハンニバルの弟とは別人)が執ることとなった。
なんだ、紛らわしい名前だが、ハンニバルも弟たちもこの遠征軍には参加してないのか。それならばもう勝敗は決まったようなものだ。
まだわからないですよ。カルタゴ軍だってハンニバル兄弟以外にも優れた指揮官はたくさんいたはずです。
この続きはまた次回以降説明していこう。
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