19、ポエニ戦争(6)

文字数 994文字

さて、いよいよハンニバル戦争とも言われた第二次ポエニ戦争について話すことにしよう。この戦争は紀元前219年から紀元前201年まで続いた。期間も長く複雑なので順を追って説明しよう。
作品集のページには下の画像から入ってください。
紀元前221年、ハスドルバルが暗殺され、ハンニバルが後継者となった。この時ハンニバルは26歳であった。彼は軍隊の司令官として指名され、カルタゴから承認も受けた。ハンニバルの力を恐れたローマはエブロ川南方にあるサグントゥムと同盟関係を結び、彼の進出を阻止しようとした。
紀元前219年、ハンニバルはサグントゥムを攻撃した。このサグントゥム包囲戦での戦力はカルタゴ23000人に対してサグントゥムは11000人、8か月後の紀元前218年にサグントゥムは陥落した。この包囲戦の最中にローマ元老院はハンニバルとカルタゴに元老院議員の使者を送って抗議の意を示したが、カルタゴ側は拒否した。
サグントゥムは紀元前218年に陥落して住民は奴隷にされた。これを受けて、ローマ元老院はカルタゴに宣戦布告し、第二次ポエニ戦争の始まりとなった。
第一次ポエニ戦争のきっかけはシチリア、第二次ポエニ戦争の始まりはヒスパニアのサグントゥムでどちらもカルタゴやローマの本土からは離れていますね。
第二次ポエニ戦争はローマから遠く離れたサグントゥムで始まったが、その後ハンニバルの軍隊はローマに向かうことになる。
ローマ元老院を代表してカルタゴに宣戦布告したのはクィントゥス・ファビウス・マクシムスという名前の将軍で時給戦略でハンニバルを苦しめ「ローマの盾」と言われました。ウィーンのシェーンブルン宮殿に立派な石像があります。
ローマ時代の人物は立派な彫像が残っていますね。
立派な彫像というならば、余の祖父でアラゴン王国建国の祖ラミロ1世も立派な彫像がある。
これは素晴らしい。我らアラゴンの王には皆このラミロ1世の血が流れているのだな。
私の時はもうかなり時代は遠いですが、それでも私の体にも祖先ラミロ1世の血は流れています。
もちろん余にも母上を通じてアラゴン王家の祖先の血が流れている。
僕が出会ったアラゴン王家の亡霊はみんなアラゴン王国建国の祖ラミロ1世の血を引いているので、この彫像を見てすごく感動しました。
彫像の話で少し脱線したようだが、次回はいよいよハンニバルのアルプス越えについて説明できると思う。
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