122、ポエニ戦争(57)
文字数 1,254文字
マルケッルスは、高名な数学者であり、防衛兵器の発明家であったアルキメデスを殺さないように命令していた。アルキメデスはこのとき既に78歳前後であったが、ローマ軍が侵入してきた後でも研究を続けていた。ローマ兵が家にやってきて彼の研究を邪魔すると、アルキメデスはこれに対して強く抗議をし退去を求めた。この兵士は、それが誰だかを知らず、その場でアルキメデスを殺害した(あるいはローマ軍を苦しめた兵器の発明家と知っていたのかもしれない)
ローマは外郭を支配下においたものの、シュラクサイ市民は内郭に退避して抵抗を続けた。しかし内郭の面積は小さく、ローマは外部からの補給を完全に遮断することができた。8ヶ月を経過した頃、場内では飢餓の苦しみが始まり、ローマとの講和が議論されるようになった。モエリスカスという名の指導者の一人がローマと内通し、アレトゥーサの泉近くにローマ軍を招き入れ、陽動攻撃を行っている間に城門を開けた。親ローマ地区に衛兵を置き、マルケッルスはシュラクサイの略奪を許した。長期の攻城戦に苦戦していたローマ兵は市内を暴れまわり、多くのシュラクサイ市民を殺害し、また生き残った市民の殆どを奴隷とした。シュラクサイは完全に略奪され、破壊された。
シュラクサイは再びローマの手に戻り、シチリア島全体がローマの属州となった。シュラクサイを確保したことにより、カルタゴはシチリアでの足場を失い、そこからイタリアにいるハンニバルを支援することが不可能となった。このため、ローマはイタリアとイベリアにその戦力を集中することができるようになった。10年後には、シチリアを補給基地としてアフリカへの侵攻作戦が実施されることになる。また、後のギリシャへの侵攻拠点としても重要な位置を占めた。シュラクサイは再建され、5世紀にいたるまでローマにとって軍事面でも経済面でも重要な都市として存在した。