160、ポエニ戦争(67)
文字数 1,140文字
春になるとカルタゴ軍はカシリヌムに戻り、数か月にわたって包囲を続けた。同じ頃、ローマの独裁官であるマルクス・ユニウス・ペラはそこから遠くないテアヌム・シディシヌムに冬営していた。マルケッルスも前執政官(プロコンスル)としてカレスで編成された2個軍団を率い、スエッスラに移動した。また、カンナエの残存兵は法務官アッピウス・クラウディウス・プルケルが率いてシチリアに渡り、逆にシチリアにいた軍団がローマに戻された。
新たな2人の執政官、クィントゥス・ファビウス・マクシムスとティベリウス・センプロニウス・グラックスはそれぞれ軍を率い、ファビウスは「奴隷兵士」と同盟国兵士25,000名を率いてペラの野営地を引き継いだ。マルケッルスもノラの防衛のためスエッスラから移動した。
他方、マリオ・アルフィオを指導者とするカンパニア人達は、クーマエをローマとの同盟から離脱させるべく、戦略を用いた。グラックスはこの計画の情報を得ると外交使節を送り、3日後にはクーマエから4.5キロメートル程の距離にあるハマスでクーマエの元老院議員と会った。グラックスは籠城に備え、クーマエに食料を可能な限り運び入れ、貯蔵するように提案した。一方で、全軍をハマスに移動させた。続いて行われた戦いはローマ・クーマエ連合軍の勝利に終わり、カンパニア側の戦死は2,000を超え、マリオ・アルフィオも戦死した。ローマ側の戦死者は100人以下であった。グラックスは敵の野営地を一掃した後、ティファタ山に野営していたハンニバルが急襲をかけてきた場合に備えて、クーマエの城壁内に撤退した。
ハンニバルは翌日にクーマエに到着し、攻城兵器を備え付けて街を包囲した。ファビウスはカレスのカストラ(防衛拠点)に駐屯していたが、占いの結果が凶であるとして、ヴォルトゥヌス川を越えることは無かった。グラックスは反撃の準備を行った。結局ハンニバルは包囲を解き、ティファタ山に引き上げた。