10、ポエニ戦争(3)

文字数 1,373文字

紀元前255年、カルタゴ軍はチェニスの戦いで圧勝し、ローマの指揮官マルクス・アテリウス・レグルスは捕虜となって悲劇的な最期を遂げた。そして紀元前249年、カルタゴはハミルカル・バルカ将軍をシチリアに送った。
作品集には下の画像から入ってください。
ハミルカル・バルカより息子のハンニバルの方が有名かもしれない。
世界史の授業で習って、ポエニ戦争とハンニバルという言葉だけはしっかり覚えています。
ハンニバルの戦術とエピソードは後の時代にも広く伝えられているが、ハミルカル・バルカもまたポエニ戦争やスペインの歴史を語る時には欠かすことのできない人物だ。
スペインの歴史にも関係があるのですね。
ハミルカル・バルカ(紀元前275ー紀元前228)の名前ハミルカルはフェニキア語の「アブド・メルカルト(メルカルトの僕)」のギリシャ語とラテン語表記でまた家族名のバルカはフェニキア語の「バラク(baraq,電光)」に由来し、ヘブライ語のと全く同じ意味になる。
メルカルトというのは神の名前ですか?
メルカルトはフェニキア人が崇拝していた神の1人でギリシャ神話のヘラクレスとも同一視されているらしいが、詳しいことはよくわからない。
ヘラクレスや雷光に関係ある名前を持っているなんてかっこいいですね。
紀元前249年、26歳のハミルカルはシチリアに送られ、勝利を重ねほぼシチリア島全土の支配を獲得した。
息子だけでなくハミルカルも相当強かったというわけだ。まるで余ペドロ2世と息子のハイメ1世のようだ。
しかし紀元前244年、カルタゴで権力を握った大ハンノは、勝利は近いと考え海軍を縮小した。
この判断が後から考えれば間違っていたというパターンですね。
ローマは艦隊を再建しアエガテス諸島沖の海戦(紀元前241年3月10日)で第一次ポエニ戦争の決着をつけた。ハミルカルも補給を失い、降伏せざるを得なかった。
ハミルカルの軍はローマ軍に対して無敗であったが、海軍が敗北した後はカルタゴへと戻った。
本人は勝ち続けていたのに海軍が負けてシチリアから撤退しなければいけなくなったのは無念だったと思います。
さらにカルタゴでは大ハンノを中心とする反ハミルカル勢力によって、傭兵に対して約束されていた報酬を支払わないということがあり、傭兵たちは反乱を起こしてしまった。
なんか酷い話ではないか。戦いを知らない人間が権力を握って海軍を縮小させたから負け、さらには勢力争いのために傭兵に約束した報酬も払わない。愚かな者が権力を持つとどういうことになるかという見本みたいだ。
すみません、私も王になっても何もできずに宮廷は王妃とその寵臣に牛耳られ、王国の財政を傾かせてしまいました。
傭兵の反乱に危機感を募らせたカルタゴ政府はハミルカルに反乱の鎮圧を要請、紀元前237年にハミルカルは傭兵の反乱の鎮圧に成功する。
傭兵というのは戦いの訓練を受けた者ばかりだ。その反乱の鎮圧に成功するとはハミルカルの実力は相当である。
余の兄上アルフォンソ1世戦士王のようだ。
反乱鎮圧の後、ハミルカルの名声は高まった。そしてこの名声を背景に彼は自分の軍隊を募り、ヌミディアなど各地から傭兵を集めて訓練を施した。そして彼はヒスパニアに向かった。
ヒスパニアというのはスペインのことですよね。
その通り!話は長くなるから続きはまた別の日にしよう。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色