120、ポエニ戦争(55)

文字数 1,277文字

シュラクサイ包囲戦についての続きです。作品集は下の画像から入って下さい。
第一次ポエニ戦争後、ローマはシチリア島全体を支配下に置いたが、シュラクサイだけはローマの同盟国として独立を保ちヒエロン2世の統治の下繁栄を続けていた。だが紀元前215年にヒエロン2世が死去すると、孫であるヒエロニムスが王位につき、シュラクサイの支配階級の中に反ローマ的な感情が出始めた。ヒエロニムスは暗殺され、親カルタゴ勢力も除去されたが、ローマの威嚇的姿勢のためにシュラクサイは戦争に備えざるを得なくなった。
力のない者が王になれば不満を持つ者にすぐに暗殺されてしまう、紀元前は怖ろしいです。
外交的努力にも関わらず、紀元前214年にローマとシュラクサイは開戦した。ローマはカルタゴとの戦い(第二次ポエニ戦争)に忙殺されていたが、マルクス・クラウディウス・マルケッルスが率いるローマ軍がシチリアに上陸し、海陸からシュラクサイを包囲した。
なんだかんだ言ってローマは人材が豊富で、優れた指揮官が次々出ている。
シチリア東岸のシュラクサイは城壁都市でありその堅牢な防御で知られていた。また、シュラクサイの防衛担当者の中に、科学者・数学者であるアルキメデスがいた。
余は包囲戦というのは経験したことがないから、どのような戦いになるのか気になる。
シュラクサイは第二次ペロポネソス戦争(紀元前415年ー紀元前404年)以来、度々包囲戦の舞台になったが、紀元前402年から紀元前397年にかけてディオニュシオス1世によって強力な要塞に作り変えられた。
ディオニュシオス1世(紀元前432年ころー紀元前367年)はシュラクサイを支配したギリシア人の僭主です。残虐で猜疑心が強く、執念深い、最悪の暴君のひとりと見なされていた。
余も人のことは言えないが、紀元前の世界には物凄い暴君がいたのだな。
ディオニュシオス1世はダンテの『神曲』「時獄篇」において、現世で流血と略奪にふけり、地獄で煮えたぎる血の川で苦しむ僭主として言及されていると書いてありました。その他にもさまざまな作品に登場し、日本では太宰治の小説「走れメロス」の暴君ディオニスのモデルとして知られています。
古代の人の方が様々な創作が加わって強烈なキャラクターになっていますね。
西側にあたるエピポライ台地を全長27キロメートルに及ぶ城壁で囲み、決まった間隔で14の塔が築かれた。6つの門が設けられたが、何れも要塞化され、最も西にあるエピポライ門は強力な防御力を持つエウリュアロス城で守られていた。この城は何度も強化されているが、最後の改装はアルキメデスが指揮している。アルキメデスはまた、攻撃兵器としてねじりバネを利用した投石機を開発しているが、80キログラムの石を発射できた。アルキメデスはこれら投石器や大型弩弓を城壁上に効果的に配置した。
私の母はシチリア王女で、弟のマルティンと甥のマルティーノがシチリアの王になっていますが、シチリアにこんなすごい歴史があったなんて知らなかったです。
アラゴンにはこのような場所はない。シチリアに行ってみたくなった。
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