226、ポエニ戦争(81)

文字数 1,556文字

第一次ヘルドニアの戦いの後、バエティス川の戦いがありました。作品集は下の画像から入ってください。
写真はセビリアを流れるグアダルキビール川と書いてありました。
バエティス川の戦いは、第二次ポエニ戦争中の紀元前211年、イベリア半島のバエティス川(現在のグアダルキビール川)を挟んで行われた戦い。
イベリア半島でもまた重要な戦いがあったのですね。
ハスドルバル(ハンニバルの弟)らのカルタゴ軍と、グナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウスとプブリウス・コルネリウス・スキピオが指揮するローマ軍が交戦し、カルタゴ軍が圧勝した。
イベリア半島に残っていたハンニバルの弟のハスドルバルもなかなか強かったということか。
ローマ軍は20,000余の兵士が戦死して、スキピオ・カルウス、コルネリウス・スキピオは共に枕を並べて討死した。
ローマ軍はイベリア半島での戦いでかなりの損害を出しているのですね。
バエティス川の戦いについては書きかけの項目になっていたので、戦死したグナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウスとプブリウス・コルネリウス・スキピオを追ってみます。
グナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウスは、第二次ポエニ戦争初期の共和政ローマの軍司令官、政治家。父はルキウス・コルネリウス・スキピオ。子にプブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ、甥にスキピオ・アフリカヌス。

第二次ポエニ戦争の際、弟のプブリウス・コルネリウス・スキピオと共にヒスパニアのカルタゴ領を攻略、キッサでカルタゴの将軍ハンノを敗る。しかし紀元前211年のバエティス川の戦いで弟が敗れた後、ハンニバルの弟ハスドルバルとマゴ・バルカ、別のカルタゴの将軍ハスドルバル・ギスコが合流したため、撤退したものの追撃を受け戦死した。

ハンニバルがいないイベリア半島の戦いではカルタゴは負けてばかりという印象でしたが、この時は圧勝していますね。
プブリウス・コルネリウス・スキピオは第二次ポエニ戦争初期の共和制ローマの軍人。父はルキウス・コルネリウス・スキピオ、兄にグナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウス。息子には後に第二次ポエニ戦争後期で活躍するスキピオ・アフリカヌス、スキピオ・アシアティクスがいる。
この時戦死したスキピオ兄弟の子が、ポエニ戦争後期で活躍するというのがすごいです。
紀元前218年に執政官(コンスル)に当選。第二次ポエニ戦争ではピサおよびマッシリアより海路でもハンニバルのイタリア侵入を警戒していたが、ハンニバルがアルプス山脈を越えてイタリアに侵入、スキピオは急遽ヒスパニアに展開していた軍をイタリア北のガリア・キサルピナ地方に召集、兄のスキピオ・カルウスと共に防戦体制に入る。その帰路のポー川付近でハンニバルの部隊と遭遇、スキピオはこの遭遇戦で敗北、自身も重傷を負う。先の敗北でハンニバルには慎重になるように彼は同僚の執政官ティベリウス・センプロニウス・ロングスに忠告するが、センプロニウスは果敢にハンニバルに挑む。しかし同年12月ハンニバルに再び敗れた。
ポエニ戦争は単純ではなく、いろいろな場所での戦いがあり、負けて死んだ人の執念が込められていて次の世代に繋がっています。
このような敗北にも関わらず、彼はローマ軍の優秀さを信じていた。彼の軍の司令官の任期は延長され、次の年に兄カルウスと共にハンニバルの本拠地であるヒスパニアに軍を展開する。この軍事行動が実際どのようなものであったかは分かっていない。しかしヒスパニアのカルタゴ領を守るハスドルバル・ギスコ率いるイベリア人の部隊に敗れ、紀元前211年12月、スキピオは兄カルウスと共にカルタゴ・ノヴァ近郊にて戦死した(バエティス川の戦い)
そこまでしても負けて戦死するとは、さぞかし無念だったであろう。
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