37、ポエニ戦争(16)

文字数 1,292文字

ポエニ戦争の中でのトラシメヌス湖畔の戦いについて続きを話そう。
作品集には下の画像から入ってください。
ハンニバルは湖畔の出口側へ重装歩兵を配置し、そこから西へ軽装歩兵、ガリア兵、騎兵の順番で丘陵の陰に隠れるように配置した。重装歩兵が敵の進軍を阻止し、騎兵が退路を遮断、軽装歩兵とガリア兵が敵主力を攻撃して湖へ追い落とすのがハンニバルの意図であった。
ハンニバルの戦術はどこも見事である。
ペドロ2世は戦術をあまり考えていませんでした。1213年にトゥールーズ郊外のミュレの戦いでペドロ2世は戦死しているのですが、無謀にも自ら先陣を切って敵軍に突撃したと伝えられています。後に曾孫のハイメ2世が「狂気の沙汰だ」と記しています。
余の勇敢な突撃を子孫はあまり評価していないのか?
時と場合によります!ハイメ1世は5歳で父を失い、大変な苦労をしています。
それでもハイメはテンプル騎士団の城モンソン城で育てられ、後に征服王となった。
モンソン城には僕もラミロ2世、ペドロ2世、ハインリヒ7世と一緒に行っています。ハイメ1世は無事に成長して立派な王様になりましたが、ペドロ2世の戦い方は子孫が言っているように無謀だったと思います。
話をトラシメヌス湖畔の戦いに戻そう。紀元前217年6月21日(日付は諸説ある)早朝、フラミニウス率いるローマ軍はトラシメヌス湖畔に差し掛かった。この日は濃霧のために視界が悪く、ローマ軍は接触までカルタゴ軍の存在に気が付かなかった。ローマ軍千峰とカルタゴ軍重装歩兵の戦闘が始まると、直ちにカルタゴ軍騎兵がローマ軍の後方へ回りこみ、退路を断つと同時にローマ軍を前方に押し込んだ。
ローマ軍は湖畔にカルタゴ軍が隠れていていきなり戦闘が始まるとは思っていなかったわけですよね。
この時点でローマ軍は大混乱に陥っていたが、丘陵の陰から軽装歩兵とガリア兵が出現すると混乱は頂点に達した。側面奇襲に成功したカルタゴ軍は、長く伸びたローマ軍隊列を分断し、またたくまにこれを壊滅させた。ローマ軍の前衛がカルタゴ軍重装歩兵の戦列を突破したが、逃亡出来たのは6,000名に過ぎなかった。戦闘は3時間で終了した。
25,000人いたローマ軍がわずかな時間で壊滅させられています。
この戦いにおけるローマ軍の死者は15,000名を超え、指揮官のフラミニウスも戦死した。ローマ軍で一度は逃亡に成功した者達も、カルタゴ軍の追撃によって大半が降伏に追い込まれた。一方のカルタゴ軍の損害は1,500名から2,000名程度であった。
トラシメヌス湖畔の戦いは、軍隊の強さよりも戦術の巧みさが勝敗を分けたと思います。
この敗戦はローマに大きな衝撃を与えた。元老院は非常手段としてファビウス・マクシムスを独裁官とし、事態に対処させることにした。ファビウス・マクシムスは巧妙な機動によってハンニバルとの決戦を避け、相手の消耗を待つ持久作戦を行った。
共和制ローマは平時は2人の執政官がいたが、大変な状況の時は独裁官を選んで対処するようにした。もっと後の時代になって、ガイウス・ユリウス・カエサルは終身独裁官である永久独裁官となった。
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