12、ポエニ戦争(4)

文字数 1,189文字

今日はハミルカル・バルカの息子、ハンニバルの名前について話をしよう。
やっとハンニバルの名前が出てきたか。余はハンニバルの戦術について早く聞きたくて待ちくたびれた。
作品のページには下の画像から入ってください。
おおー!これがハンニバルの像か!
ローマの敵でありながらもこんな立派な像が作られていたのですね。
ハンニバル・バルカ(紀元前247年ー紀元前183年/182年)はハミルカル・バルカ(紀元前275年ー紀元前228年)の息子である。ハミルカル・バルカの名前の意味は覚えているかな。
ハミルカルはフェニキア語の「アブド・メルカルト(メルカルトの僕)」をギリシャ語やラテン語にしたもの、バルカは「電光」の意味です。
そしてハンニバルには「バアルの恵み」や「慈悲深きバアル」「バアルは我が主」を意味すると考えられている。
バアルというのは神様の名前ですか?
バアルはカナン地域を中心に各地で崇められた嵐と慈雨の神でセム語で「主」または「主人」「地主」を意味している。バアルの名前は紀元前3000年頃から見られ、ウガリット神話ではバアルを中心にした壮大な神話体系がある。
ウガリット神話やバアルなどは初めて聞く名前です。
ウガリット神話やバアルについては長く複雑な話になるので、ここで詳しくは説明できないが、バアルはフェニキア人の間で広く崇められていた神だった。
フェニキア人の最初の都市は衰え、カルタゴが栄える時代になっても、バアル神への信仰は続いていたのですね。
ハミルカルは息子にバアルにちなんだ名前をつけ、さらに息子が遠征の同行を願い出た時、ハンニバルをバアルの神殿に連れて行き、息子に一生ローマを敵にすると誓わせたと言われている。
これがシリアのパルミラにあるバアルの神殿だ。
ハンニバルはその時何歳ぐらいだったのですか?
ハミルカルが傭兵の反乱を鎮圧したのが紀元前237年でこの時ハミルカルは38歳、ハンニバルは10歳、この後ハミルカルはイベリア半島の植民地化政策へと向かい植民都市カルタゴ・ノウァを建設した。
ハミルカルは息子のハンニバルを連れていよいよイベリア半島に上陸するのですね。すごくスケールの大きな話でワクワクします。
結局今回もハンニバルの名前の由来とバアルという神の話が中心になってハンニバルの戦術は聞けなかったじれったくてイライラする。
名前の由来というのは重要なことである。余の父上サンチョ・ラミレス王はローマに巡礼の旅をして、聖ペトロの臣下になると誓い、長男をペドロと名付けた。余の兄上、アラゴン3代目の王ペドロ1世である。
余の名前ペドロ2世もそこからつけているのか。
聖人や神にちなんだ名前をつけるということは強い信仰心があるからですよね。
ハミルカルとハンニバルはカルタゴの強い将軍ということで有名だが、神への信仰心も強かったに違いない。話が長くなったので続きはまた別の日にしよう。
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