14、ウガリットの文字と歴史

文字数 1,537文字

今日もまたウガリットについての説明です。
どうせまたハンニバルからは遠い時代の話だろう。余が興味があるのはハンニバルの戦術だ!いい加減待ちくたびれた。
ハンニバルについても後でしっかり話題にします。作品集は下の画像から入ってください。
おおー!これが楔型文字というものか。現代はなんて便利な時代だ。家にいながらこうした画像を見ることができるなんて夢のようだ。
ニコラさん、まさかウガリット文字の勉強をしたいなんて言い出さないでしょうね。僕はもうフェニキア文字とヘブライ文字、それにアラビア文字も出てきてそれだけでもう頭がいっぱいです。
だが、遠い昔の、我々が生きた時代とは全く違う世界の話を聞くのは面白いかもしれない。
ウガリットの楔型文字についてはこういう形をしていたということにとどめておきます。
ウガリット文字と僕たちが今習っているフェニキア文字はどちらが古いのですか?
ウガリット文字が生まれたのは紀元前1400年頃で粘土板に葦の茎を押し付けて書きますが、シュメール語などの表意文字の楔型文字と違って母音を表示せず子音のみを示す表音文字であることはフェニキア文字とよく似ています。どちらが先かということは議論が分かれています。
そうか、楔型文字というのは粘土板に葦の茎を押し付けて書いていたのか。そんなものが何千年も壊れずにそのままの形で残って文字の解読ができるというのは奇跡だ。
数千年前の粘土板の文字が読めるということは、それだけそれらの地域が乾燥して場所だったからであろう。
ウガリットの歴史についても簡単に説明します。ウガリットは紀元前6000年頃には重要な場所として集落全体を壁で囲い守りを固めていました。後にメソポタミアと文化的に交流が始まります。
ウガリットは紀元前16世紀頃からエジプトの影響圏に入り、紀元前16世紀から13世紀にかけてが全盛期でエジプトやキプロスと緊密な外交があり、ウガリットの王族がエジプトに出した書簡がエジプトのアマルナから発見されています。
その書簡というのはやっぱり粘土板に楔型文字で書かれていたのか?
もちろんそうです。アマルナ文書の多くはエジプト第18王朝アメンホテプ4世(在位紀元前1353年頃~紀元前1336年頃)のものです。アマルナ文書の多くは当時の国際語だったアッカド語で書かれていました。アメンホテプ4世というのはアクエンアテンという名前の方が日本では有名で、エジプトで宗教改革を行って都を移しました。ツタンカーメンの父です。
エジプトの王ツタンカーメンの墓が発見されたのは1922年なので、ルネサンスやそれ以上前に生まれた方にはピンとこないかもしれませんが、とても有名です。都市国家ウガリットは大体同じくらいの時代に栄え、エジプトにたくさんの書簡を送っていました。
アマルナ文書は周辺のいろいろな国から書簡が送られていたようですが、当時の王アメンヘテプ4世は自身の宗教に熱中してそのほとんどを無視していたみたいです。
紀元前13世紀初頭にはエジプト・ヒッタイト間でシリアをめぐる勢力争いがありましたが、この時はヒッタイト側に立ちました。ヒッタイトのシュッピルリウマ2世(紀元前13世紀後半)と同時代にウガリットにはアンムラピという王がいたことがわかっています。
そんなに昔のことなのにいろいろなことがわかっているのですね。
それもみな粘土板と楔型文字のおかげだ。ああ、楔型文字というものを読んでみたい。
ウガリットは紀元前1200年頃、「海の民」の侵入によって破壊されました。
「海の民」によって破壊されたとは。その「海の民」とは何者だ?
それが現代でもまだよくわかっていません。同じころヒッタイトの首都ハットゥシャも「海の民」によって破壊されました。
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