なにかを覚悟していたのだろう。彼女の言う意味はすぐに分かった。狼になった川田、カラスになったドーン、猫になった横根……。避けていた現実感がまとめて押しよせてくる。
異形になってからおおよそ二日。その頃になれば瑞希達は空腹を覚える。飢えに必死に抗うが、じきに泣きながら野良犬がむさぼるような食い物を口に入れる。そして人でなくなる。……人の目にさらされた完全な異形となる
コエ、チイサイナ
(あいつらがなぜそんな目にあわなきゃいけないんだ。見知った世界が他愛もなく、そこら中に存在するのに……)
師傅を呼んでください。台湾に迎えにいっても、二日あれば日本に戻ってこられる……?
伝えなければならないことは、まだある。ほとんどの四神くずれ達は用なしゆえ、鴉達の餌となった。さらには師傅が……
今まででさえ、生け贄達は人の世に忌むべきものとして劉師傅の手で幾度となく消されている。
……師傅は、龍の誕生を阻止するためだけに来られる。こたびは青龍誕生があり得るから、より非情に徹せられるだろう
(思玲の話が事実なら、じきにみな人でなくなり、そうでなくても殺される。……そんな話を受けいれられるか)
私は台湾を発つ前に、式神の殺生を認めると師傅に告げられた。それは流範を殺せとだけの意味ではない。式神くずれである川田達も含まれる。
私にそんなことはできない。だから哲人に打ち明けた。信じてくれ
(思玲は桜井達を殺すために日本に差し向けられたのだと?)
哲人は大丈夫だ。異形といえども、人の目に見えぬ知恵ある精霊だ。数百年も人としての心が残るかもしれぬ。ゆえに、哲人にだけ伝えるのだ
なにもかも理解したくない。こんな話聞かなければよかった。打ち明けた思玲に恨みすら感じる。
人だろうが妖怪だろうが、俺だけ生き残れるわけないだろ!
思玲はしばらく潤んだ目を向けていたが、ふいに立ちあがる。眼鏡をあげて目をこすり、見慣れてきたきつい目で俺を見おろす。ジーンズの埃をはらう。
他がいないゆえ、なにも知らぬ若者に語っただけだ。消えゆくさだめの物の怪に成り変わった者にな。
私などどこにいようが、ひとつだけ枝に残った花梨の実だ。さきほどの話は戯言だ。和戸達にはゆめゆめ話すなよ
(自分一人の胸に溜めこんだものを吐きだして、それで満足したというのか……。彼女は俺にすら、今だってすがりたいはずだ)
俺は護符を持っている。
川田は狼だ。強いに決まっている。横根も猫なら素早いだろ。ドーンは……、そうだよ、空を飛べる。さらには、桜井は龍になるぐらいの力がある。
みんなで力をあわせれば、きっと人に戻れますよね?
……それに思玲が加われば問題などなにもない。だから頼みます。力を貸してください
ペコリ
彼女へと頭をさげる。俺達だって思玲しか頼る人はいない。
彼女の声はあざけてなどいない。しゃがんで、また俺を抱きしめる。
正面から抱かれると、今の自分が小さいことをあらためて実感する。こんな有様で大口叩いて恥ずかしくもなるが、彼女からのかすかな香とこの数日分の汗の匂いを嗅ぐと、
猫は、鴉や人はもちろん犬よりはるかに五感も霊感も強い。すばしこく、式神から逃げまわることもできる。人に戻れたものの半数は白猫だ
闇の中でケヤキが俺達を眺めている。眼鏡ごしであろうと、また流れだした彼女の涙を感じる。しがみつかれるように接しているからだ。座敷わらしとしての俺が、思玲は守るべき存在だと感づいている。
狼も存在だけで、奴らに威圧を与えるだろう。中身がばれるまではな。
だが和戸はみそかすだ。狙われるだけだ。なぜなら人は空を飛べない。朱雀のなり損ないの多くは鶏だった。その人達は、青龍もどきのオオトカゲやヒキガエルよりもか弱かった。
……鷲や鷹になった人もいる。それでも飛べなかった。どちらも地べたを歩き、もがいでいた
俺は思玲の抱擁から体をどかす。
思玲が呆気にとられた顔で俺を見る。彼女が俺を頼ったから、妖怪としての俺の力が動きだした。俺は知っていた。座敷わらしはその家に幸運をもたらす妖怪だと。ならば、大切な仲間にだってもたらせるはずだ。
和戸を守るだと? 哲人が?
護符はお前しか守らない。他の者を守るには、護符でなくお前そのものの力が必要だ
……そうだな。ならば私も守る。みなを守るしかないな。そのために私は来た
思玲があらためて立ちあがる。バッグからハンカチを取りだし鼻をかむ。
だいぶ遅くなったが、あいつらのもとに戻るぞ。和戸の騒ぎが目に浮かぶな
俺も校舎に挟まれた中庭を進む……。
彼女からの残酷すぎる話。みんなに隠しておくべきか? 打ち明けるのと、どっちが非情だろう。そもそも俺は、残された時間が二日と伝える勇気を持てるのか。俺一人でしまいこんでも心がくじけそうなのに……。
(全員が人に戻ればいいだけだ。まだ二日もあると、そう考えるしかない。それに、伝えるのは思玲の役目だ。俺はただの座敷わらしだから)
校内を貫く広い道にでる。町の喧騒がかすかに届くだけで、人の気はない。暗闇に浮かぶ時計塔を見ると八時前だ。
カフェテラスが見え、思玲が舌打ちをする。小刀を再度取りだす。
俺は浮かびあがる。俺達がいたテーブルのあたりに、たしかに白っぽい影が見える。追いはらおうと思玲の前にでる。
やめろ。容易に張った結界だとしても、あれに感づくとはかなりの霊力だ。物の怪や死霊では無理だ。
あの男の差しむけた、私の知りえぬ式神かもしれぬ
妖怪? 式神?
結界らしき前でうごめくものは、俺の同類でない。
あれはただの猫だ。