そっちには行くな。あそこには、かなりの邪悪どもが封印されている。残った力で異形のものをおびき寄せている
図書館のことみたいだが、俺は勉学に励む身だったから普通に通っていた。
封印されているから、生身の者には危害を与えられぬ。おのれらの利になる力を持つものを待ち続け、誘い続けるだけだ
物の怪は見えないってだけで、そんなにいるのですか?
おらぬ。
……京都は錚々たるらしいがな。師傅ですら手をつけられぬものが、今なおごろごろ眠っているらしい。
この国は儀式としての告刀がかかせぬわけだ
(京都は中学の修学旅行で行ったきりだが、そんなにおどろおどろしかったっけ? 告刀ってなんだ?)
わあ!
やはり触れるか。……人の子と変わらぬ抱きごこちだな
俺を裏がえし目の前で見つめる。くるりと正面へ戻され、
試しただけだ。
ちなみに図書館に封じられているのは物の怪ごときではない。いわゆる西洋の使い魔だ。讒言を用いるから絶対に近寄るな
俺は平静を装って進む……。
思玲の息を感じる距離にドキリとしてしまった。妖怪になってから、この女に惹きつけられる。
守衛が思玲へにやにや話しかけている。妖怪になってから、人間の声が耳ざわりだ。 思玲は完全無視する。
今までの事例と比べて、どいつの動揺も御しがたいほどではない。あの娘は気苦労なしの仲良しグループを選んだな
いとこは難を逃れましたよ。それに、だったら家族とかのが
親族は避けるように仕掛けてあるのだろう。絆が強すぎて、あの男が望む結果が得られるとは思えぬ。ところで、哲人に伝えたいことがあってな
(話さないなら俺から質問だ。分からないことがたっぷりとある)
桜井は今どこにいるのですか?
お前は桜井桜井オンリーだな。龍になってないなら戻ってくる。哲人のもとにな
欲情に満ちた
面を向けるな。正確にはお前の懐の玉へだ。
ついでに言うと、流範もそれを望む。完全なる青龍になってもらうためにな。
だから箱を隠した
(俺はキーマンになっているじゃないか)
カラス達は箱を取りかえしに来ますか?
(だとしたら、俺はターゲットだ)
楊偉天に顔向けできぬゆえに、死ぬ気で来る。
しかし、あの玉は流範の手に負えぬ。桜井がおのずから青龍に変げするのを待つだけだろう
私が楊偉天の手もとにいた頃、奴は四神のなかでも青龍は別格だと言った。そんなものが具現すれば、大陸の魔道士が団結せねばならぬ厄災がおとずれる。青龍の争奪戦が起きるかもしれぬ。
……香港の連中が喜んで参戦しそうだな
思玲はうんざりげな顔になる。東アジアを巻きこんだ話になってきた。
ちなみに完全なる青龍になるということは、人の心もその場で消える。哲人は二度と桜井に会えぬ
ゴクリ
(隠してある箱が命運を握っているのだ。なにがあっても守らないと)
二三才児の図体で神妙になるな。あの箱の気配は途絶えている。流範程度なら、お前の
腸をえぐりだすまで気づくことはない。
それに害意あるものが寄ってきたら、あの護符が力を露わにするだけだしな
(いちいち気にさわる物言いだ。でも俺には、こいつのビームも効かないお天狗さんの木札があるわけだ)
川田達と並んで歩いた大通りを浮かびながら進む。強烈なままの陽が斜めに差す。
俺は木札のおかげで四神にならなかったのですよね? 代わりに座敷わらしになった
俺も木札を手に入れたわけを知りたかったので(家族も誰も信じやしなかった)、中三の冬の日の出来事を教える。
哲人がよほど気にいられたか、その土着の神と縁があるのか……
(土着ってなんだ? なんとなく意味は伝わる。地元の無鉄砲な中学生を選ぶ神様のことだろう)
人間に戻ったら、お礼にお天狗さんに案内しますよ。十月まで待てば弟の誕生月だから、温泉ランドに連れも安く入れるし
そうか。一度は白い雪というものを見たくてな。異国の地に一人でいるときぐらい、おのれの願いを口にだしてもいいだろ。
スタスタ
そもそも哲人が人に戻ったら、今の記憶はない。私は赤の他人に戻る
(彼女には悪いがそうなって欲しい。でも)
思玲の記憶からも、俺達は消えるのですよね
私だけは残る。幼い頃からふたつの世界が重なっていたためかもしれぬ。それでも私から話しかけることはない……。
哲人がまだ人だったときに、心に声をかけてしまった。覚えているか?
桜井が再び箱を開けたときのことだろう。片言英語とは別に、彼女の声が飛びこんできた。
その娘をとめろ。私は箱に近寄れないから、貴様に頼むのだ
(脳にこすりつけられたように、はっきりと)覚えています。
だろうな。
今交わしている言葉があれだ。異形のものと交わすための声だ。
結界が裂け、敵だらけ、守るべきものだらけ。桜井はおのれの意志で箱を開け、八方ふさがりゆえ使ってしまった。しかし生身の人間にかけるなど、妖術と呼ばれても仕方ない。
……私の声は強い。哲人の心に刻みこまれたかもしれぬが許してくれ
(それがどういう影響を残すのか、今の俺に分かるはずはない)
人間に戻ってから心配しますよ
行き先も知らないくせに前を行く思玲を追い越す。 背後で安堵したように笑う。
哲人は理屈屋のくせにかわいいところがある。ゆえに土着の神に好かれたのかもな。
覚えていたとしても、温泉になど誘わなくてよいからな。私達みたいなものとは関わらないにかぎる
川田のアパートへのT字路を通りすぎる。正面から蜂が一直線に飛んできた。俺にぶつかる手前で、ふわりと横に流される。
周囲より頭ふたつはでかい黒人男性が目前にいた。避ける間もなく顔面に衝突する。と思ったら、
直前で俺の体がふわりと流れた。すれ違いざまに汗とコロンの香りが漂う。
振り返ると、思玲と黒人が向かいあっていた。背高い彼女でも胸もと程度しかない。
黒人は両手をひろげて道を譲り、鼻歌まじりに歩き去る。タンクトップの太い腕は入れ墨でびっしりだった。
哲人はあいつとぶつからなかっただろ。式神でもない異形に触れられるのは、生身のものなら私だけかも知れぬ。……取っ組み合いになったら別だぞ。人も異形も必死だからな
(さきほど俺を抱いたのは、本当にただ単に試しただけか)
大型ディスカウントストアの店頭で思玲に道をゆずる。
(さっきから伝えたいことがあるみたいだが言いだせないようだ)
もしかして、日本のお金がないのですか?
思玲がショルダーを肩からおろし、中身を探る。小さいバッグに横長でむき身の小刀がおさまるのは、物理的におかしいと気づく。
彼女は帯封された一万円札の束をふたつかみ取りだす。
師傅がこの国で妖獣退治を依頼されたときの、謝礼のごく一部だ。
金でしか誠意をあらわせぬ世だから、心置きなくいただいている。我々は慎ましく生きているので、いっこうに減りはせぬがな。
日本の物価も高いらしいが、これだけあれば首輪などいくらでも買えるだろ
(俺も行くのかよ。気乗りしない。なかは人間だらけだし……)
!!!
店に入るなり、明かりとアナウンスに襲いかかられた。クーラーに体が震えだす。客にぶつかりはじき飛ばされる。
床までもぐるように降りても、自動ドアは開かない。入ってきた客に蹴られて奥まではじき飛ばされる。痛い。騒音に押しつぶされる。体が凍りだした。
はぐれた彼女を呼ぶ。反応はない。蛍光灯で目がくらみ、見えない嘔吐をする。
絶叫する。
近くの女性がかまえるように振り向き、周囲を見まわし去っていく。意識が遠のく。体が消え去りそうだ。
自分の声さえ遠ざかっていく……。
ふいに持ちあげられる。
だからしがみつく。自動ドアが開き、外の空気を感じる。
ナデナデ
お前、薄くなっているぞ。文明の灯が駄目ときたか。まさに絶滅危惧種だな。
ヨシヨシ
物の怪と護符の力に加え人の智もあわせ持つのに、残念なほどに使えぬかもな。その護符にしても、人の作りし力には抗わぬか。
サスリサスリ
人に蹴られて痛かった。さっきの黒人とはすれ違えたのに
電気の下だからだろ。お前と二人ならばあいつが送りこまれても、などと思った私が愚かだった
祈る必要ないな。外気にあたっていれば、じきにおさまる。私一人で買い求めるから休んでいろ
彼女は一人で店に戻っていく。俺はぐったりと宙に浮かぶだけだ。
次回「大水青さえ素通りする」