五の一 夢物語にようこそ
文字数 2,846文字
女の子が覗きこんでいた。
中国語が伝わる……。心への声だ。
スーリンは手にした扇をすこし見つめたあと、玄関から日差しへと消えていく。彼女はすでにおとなの服を脱ぎ、お気に入りのライトイエローのワンピースに着替えていた。
俺はぼんやりしたまま上半身を持ちあげる。
ユニットバスから吠え声混じりに、誰かがわめいている。
「リクト?」と、おそるおそる声をかける。
どうコメントしていいか分からないけど、とりあえず子犬は、俺のことを名字で呼んでいた。
あの片側の目がつぶれた不憫な子犬は、こんないやしいことばかり言っていたのか。……待てよ。リクトの声が聞こえるってことは。
俺は立ちあがる。子どもの目線だ。トレパンから日焼けした足が見える。屋内なのにトレシューを履いている。上着は、懐かしいな、ジュニア時代の練習着だ――。
ゾワッと体中に鳥肌が立つ。この気配はなんだ。なんで感じとれるんだ?
リクトが吠えるのをやめた。ユニットバスのドアノブが下がる。ジャンプしたのかよ。外からの気配も怖いが、こいつもヤバい。俺は飛ぶように玄関わきのドアへと進む。両手でノブをあげる。
ノブを下げる力が内側から加わる。くわえてぶら下がっているな。
「ま、待てよ。まだ待って!」
外の気配より、こいつのが恐ろしい。俺はノブを必死に上に引っぱる。
ノブをおろす力が強まる。鼻息の音がここまで伝わる。
吠えた拍子に床に落ちたのか、下げようとする力が急に途絶える。反動で、ノブを起点に俺の体がふわりと浮かぶ。
玄関先が騒がしくなる。開いたドアから、
女の子を押し倒すように、全裸の女性が俺の部屋に押し入ってきた。……巨漢で豊満で銀髪の白人だ。俺は凍りついて凝視してしまう。その白人中年女性も宙に浮かぶ俺を見る。
女性の下で女の子がもがきながら叫ぶ。
女の子と二人がかりで、フサフサと呼ばれる中年白人女性に男物のタンクトップと短パンを着させる。
(フサフサは協力的だ。でも服がピチピチ……。
胸にさらしを巻いてから再度上着を着せる。なにかで必要になるかもと、ひとり暮らしの際に持たされたが、こんな使い道になるとは母も思わなかっただろう。
……この人があの野良猫とは。想像していた世界とちがう)
(カラスがドーンの声で笑う。
こいつは俺の頭上から逃げて、机のスタンドにとまろうとしてそれを倒して、結局テーブルにおりた。
ドーンがカラスになると聞いていたが、もっと漫画的なかわいいというかユーモラスな鳥になると思いこんでいた。リアルな本当のカラスかよ)
次回「旅立ち」