五の二 大水青さえ素通りする
文字数 3,409文字
小走りのスーツ姿のおじさんと瞬間目が合う。浮かんでいる俺のあたりを二度見する。忙しそうに去っていった……。
レジ袋をぶら下げた思玲が店からでてくる。
昨日から食べてないと、聞こえよがしに言っていた。
道を曲がる車のライトに照らされる。しびれるほどにまぶしくて、体ごとそらす。なんでこんな身になったんだ。はやく暗い場所にひそみたい……。
俺の身より桜井だ。
会話がとだえる。
夕暮れのなか、背高くきれいな彼女への道行く人の視線を感じる。背後に浮かぶ俺は見向きもされない。そんなの半日前まで当たり前だったのに、今はもどかしい。
桜井はどこにいるのか、それを心底知りたい。あそこにいた仲間五人でそろいたい。
母の実家の山間の集落を、あまやかし放題だった祖母を思いだしてしまう(俺は母方の初孫だった)。
……もう一年もご無沙汰している。人間に戻ったらまっさきに顔をださないと。
ずけずけとした物言いが感傷を打ち消してくれる。
俺はため息をつき、この世界へと意識を戻す。
街に浮かぶ空が暮れなずむ。幸いにも街灯の明かり程度では気にならない。川田のアパートへの分かれ道を過ぎる。
沈黙が続くと不安になる。
思玲が校門前で立ちどまる。……夜の信号は光が一直線でつらい。逃れるために彼女の背中まで降りる。鍛えていようがか細い女性の背だ。師傅が来るまでは、ここにすべてを背負い続けるのか。
そんなことしか口にだせない。
…………。
魔道士を名乗る以上は、異形が見えて言葉を交わせる。それぐらいがよいだろう。
私など子供の頃は怯えてばかり。娘になってからは、嫌なものがさらに集まりだした。近所の者さえ感づくほどにな。
見兼ねたというか見捨てた親が魔道士などに預けたおかげで、禍々しい力を利に変えることができた
俺も横断歩道を渡る。ふいに体が震える。
大学校舎は明かりも少ない。正門脇の通用口だけが開いている。思玲が立ちどまる。
思玲は二言三言守衛と言葉を交わしたのち、愛想笑いで頭をさげて戻ってくる。俺にむすっとした顔を向ける。
彼女は信号まで戻っていく。
思玲はまた歩きだす。交差点は赤だから立ちどまる。俺はヘッドライトから目を伏せて、彼女の前にまわりこむ。光を背中に浴びるだけでも不快だ。
青に変わった横断歩道を渡らず、大学沿いの脇道に進む。
三人のもとへと俺だけでも向かいたいが、仕方なく彼女のあとを追う。
夜に見る大学は塀に囲まれ威圧感さえある。数人とすれ違うが、思玲は塀に沿って黙々と歩くだけだ。
また前から人が来る。いや、人ではない。俺と同類でもない。
その寝間着姿の男性は下を向いて歩いているから、目を合わせようもない。それでもそっぽを向いてすれ違う。
まばらな街灯の下で言う。
俺は高く浮かびあがる。
夜になるなり幽霊がさまよう世界。こんなところにいられるか。
塀を越えて、大学に降りたつ。
敷地内でも裏側だから、明かりは非常口の常夜灯ぐらいだ。
大きなケヤキが枝の影をひろげている。闇が落ち着く自分に腹がたつ。
背後でどさりと音がする。振り返ると、思玲が横たわっていた。
背後の塀に大きな穴が開いている。外の道が覗ける。穴はみるみる小さくなる。
思玲は胸を上下させて、息をするのもつらそうだ。
立ちあがろうとして、地べたにしゃがみこむ。
思玲がまたコンクリートにあおむけに寝ころぶ。扇を握ったままの手を顔に乗せ、
俺は暗闇に横たわる彼女まで降りる。交差点あたりからクラクションが鳴り響く。思玲は眼鏡をずらし、顔の汗を手でぬぐう。地面に手をつき座りなおす。
俺にぶつかりかけた大きな青白い蛾がふわりと通り過ぎる。
思玲は蛾を目で追いながら言う。
次回「インプット」