雲の上の払暁
文字数 2,949文字
5-tuneⅡ 四神獣達のシフトアップ
0.5-tune
すべてが疎ましい。杖を濡らす朝露さえも。
こいつの声こそが疎ましい。楊偉天は参謀を気取る式神へと顔を向ける。雲海の只中で姿が見えぬのが、まだ救いだ。
なぜに、こいつに頼らざるを得ないのだ。
下から聞こえる小鳥のさえずりさえ疎ましい。
やさしい龍だ。なおも人の心が残っている。おそらく四玉の蒼光をすべて受け入れぬ限り。それか儂を食らうまでは……。
楊偉天をつつむ霧が薄らいでいく。
聞きたくもないことまで伝える。……あの龍はもはや異形を餌と選ばぬのか。
龍を封じるためか、儂を殺すためかは知らない。それとも四玉に関わったものを根絶やしにするためにか。
白霧が流れだしたなかで影が答える。
最大の気がかりを聞く。
誰のせいでそうなったのだ。上海と香港、その両方に狙われるとは……。追われ逃れた七十年も昔を思いだしてしまう。
儂は焦っているのか。失態の数々も焦りゆえか。齢が百を越えたゆえの焦りか?
こいつを奴らに差しだしてもいい。
霧が晴れる。漆黒のチャイナドレスをまとった峻計の姿があらわになる。妖艶な笑みを主へと向ける。
霧は下へと降りていき、荒々しい戸隠山を雲海に浮かばせる。
事実を告げねばならぬほどに追いつめられている。
楊偉天が杖をかかげる。胸もとの鏡が朝日を照らす。峻計は笑みを凍らせ後ずさる。
楊偉天は静かに杖をおろす。
琥珀よ。
張麗豪が戻れば、この大鴉も処分できる。できれば、その前に消し去りたい。だが、あまりにも配下がすくない。龍の動向を抑えるだけで、大陸からの魔道士どもを追い払うだけで精一杯だ。
霧が去り、両脇の切り立った断崖の底まで見える。龍はこの山には来ない。あの娘の魂が儂を避けているのだから。すべてが疎ましい。
そこに蒼光の残りかすもあるはずだ。
あの朝から半月を過ぎたかと、楊は思う。人の世に戻ったものは、儂の記憶から消える。そいつがなにをして生き延び、なにをして峻計を怒らせたのか、さらには儂の邪魔もしたのか。記憶にないのだからもはやどうでもいい。しかし報いは受けるようだ。こんな執念深い魔物に憑りつかれるとは、自業自得とはいえ悲運な者だ。
長身の男が蟻の塔渡りを臆することなくやってきた。大きな荷物を片手で背負う。こいつかと、楊偉天は更に暗たんとなる。
大男がずた袋を山道に落とす。黄土色の作務衣を着た隻腕の男だ。刈りこんだ髪の下で、ごつごつとした細長い面の凶相が落ちくぼんだ目で笑う。
峻計が男に笑いかけ、楊偉天に顔を向ける。
峻計が小刀を宙にかざし、袋が縦に裂ける。
縛られた血みどろの男が転がりでる。
楊偉天ですら狼狽する。
楊の声へと、満身創痍の初老の男がうつろな目を向ける。
楊偉天は考える。あの憎々しき梟と蝙蝠を呼びだし抹消する……。いや、儂はまだ堕ちていない。この齢にして、なおも純然たる探求者だ。そう思われ続けたい。
陳に弁明するように、楊偉天は人の声で言う。
あの島に追放されたおのれを、もう一度認めさせる。そのために、青龍とともに凱旋する。誰も儂に異端の目を向けなくなる……。
楊は鏡をさする。
またも京都へ向かうしかないか。我が盾となる禍々しい式神を手にするために。こいつらを頼らずに済むように。
峻計が小刀をかざす。
峻計の手の動きに合わせて、陳を縛った荒縄が切れる。
土壁の残された手に槍があらわれる。人の手のような真紅の刃先の五叉槍が。
陳がよろめきながら立ちあがり、絶壁へと身をひるがえす――。
残響が奥深い山にこだまする。陳の体は黒い光とともにはじき消える。
その声に楊偉天は振りかえる。対の黒羽扇を交差させた峻計が誇らしげに笑っていた。
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