流範はすぐそばにいるのに、雷の気配が強すぎて居場所までは分からない。稲光が空を切り裂き、ほぼ同時にバリバリと響く。大粒な雨がビチャッビチャッと落ちてくる。スコールが始まった。
妖怪である俺にも雨は叩きつけてくる。横根達は雨の当たらぬ場所に移っているだろうか。
またたく間に濡れそぼった狼から、狩りへの喜びが伝わる。
狼の裂けた口にリードを持っていく。もっと根もとだと、さらに頼まれる。狼は牙をむき出しにして咀嚼する。じきにリードは引きちぎられる。
俺は木札を懐で確認して、背の高い雑草を覗きながら進む。工事を投げだされた民家の脇へとまわる。黒い空は始終どよめく。ドーンのいる向かいの家へ目を向けるが、雨が強すぎてそんな近くさえ見えない。
稲妻に照らされて、雨の中を黒い鳥が飛んできた。ベニヤ板がはがれた窓から、雷から逃げるように家へと飛びこむ。
ドーンであるはずがない。ならばゴウオンか?
屋内に入り、雨から解放される。うち捨てられた家屋の中は真っ暗だ。入ってきた窓から稲光が照らす。雨の勢いは増している。体から滴が垂れていないことに気づく。雨水さえ俺には触れられない。
異形の気配が濃う。流範はこの中だ。護符はまだ発動しない。
闇へと声をかける。流範が返事するはずがない。部屋を見わたす。闇にこそ俺の目は馴染む……。内装はされていない。地面に敷かれたコンクリートがむき出しだ。
凄まじい閃光と轟音が家を包む。きな臭い匂いと地響きさえ感じた。雷雲は真上で暴れている。また空が光る。雷のもたらす音ともに、前から気配が現れる。稲光がおたがいを照らす。
狼の目がどう猛に光る。
川田が体を震わし水滴を飛ばす。
流範の血を追って、裏のどこからか入ってきたのだろう。俺には血の匂いなど感じられない。ただ気配ははっきりと感じる。
あんな化け物を名前で呼ぶな。
……俺達と一緒にするな
階段になるはずの段組みの下へと歩む。奈落にかかったような足組をいく。
雷の閃光も流範まで届かない。狭い足場を進む狼を、俺は中空から追い越す。暗闇の隅に、大カラスの黒い体がにじむように見える。
お前に力を与えれば、キジムナーの振りをした悪鬼が目に入る。カンナイを抜け殻にしたのも、おそらくそいつだ。
だが絶対に関わるな。お前は南に帰れ
流範様もあきらめないでくださいね。力をもらわないと、呼ぶ声しか聞こえない。ここにだって、ボソを追ってたまたま来られただけだし……
俺の目は底知れぬ闇にすら同化していく。うずまる大カラスの姿が浮かんでくる。
流範は折れ曲がったくちばしで、どちらの羽根もだらりと落ち、片方の眼孔は空洞となっていた。溶けゆく体のなかで顔をもたげている。
そ、そこでうごめいている闇みたいなのがあれか? うめき声みたいなのがあれの声か?
川田には見えていない。もはや狼では感じとれないほどの存在へと、流範はなっている。
流範は笑うことさえできず、くちばしからむせるように黒い液体を吐く。
奴に与えた傷が浅かったのは心残りかな。
穴熊にふたつばかり伝えろ。俺が溶けて消えるのはお前の手柄でない。護符の怒りが強すぎて、あの時点で俺は消える運命だったとな
狼は闇を見つめる俺の前へと進もうとして躊躇する。
流範がまた黒い液体を吐きだす。
仲間が死んだとき、俺の心は立て続けにうずいた。しかしお前は劉昇を失ったところで、俺らほどに悲しめるかな。
それも思玲に伝えろ
待たせたな。使いのカラスよ、来るがいい
カカッ、イエの中で見るとなおさらでかい犬だな。こいつも物の怪ですか?
流範はそう言うと、曲がったくちばしを無理やりひろげる。異形の力の残りかすが、ただのカラスに向かう。
ゴウオンが入ってきた窓枠にとまる。ひと際長い雷光を浴びて、濡れた黒羽根が若い女性の髪のように緑のつやを帯びた。
流範様には悪いですが、南に帰る前にやることがあるですよ
チリチリチー、チリチリチー、チーチリチリチリチー……
ああ。
(そうに違いない。笛の音は、歓喜さえもはっきりと伝える。草鈴を吹いているのは桜井だろう。青龍もどきの秘めた力が笛に乗って、音となり伝わる)
告げずにはいられない。……流範は溶けた体に沈んでいた。片目と折れ曲がったくちばしだけが、地面すれすれに残る。
言い残して流範が消滅する。大カラスのいた暗闇は虚無のごとくなる……。
俺は川田の問いにうなずけない。流範の消え去った影から、人の姿をした魂が浮かびあがる。
霊にも似た気配。闇の中でもはっきりと見える。俺達と同じくらいの年代で、髪を短く切りそろえ、屋外労働にたけた感じに日焼けした男が立ちつくしている。
川田は気づかない。俺は目を合わさぬように顔をそらす。
人間のガキみたいなのが、ヂャオリーを抜け殻にしたのか
ゴウオンが俺へと突っこむ。稲光がまた屋内を照らし、怒りに満ちたカラスをも照らす。
さすが川田、タイミング悪すぎだ。発動した木札に、俺の盾になろうとした狼が足場から落ちる。
(……護符はかすめただけだよな。ぎりセーフ)
!!!
川田が足場の底から跳躍する。空中のゴウオンに跳ねかかる。足場に落ちた狼とカラスを、ひと際でかい雷の光が照らす。
落雷の轟きはスクランブル発進した米軍機ほどで、川田の絶叫をかき消す。
狼がゴウオンの首をくわえて投げる。
カラスは壁に激突して、ずるずると落ちる。
川田が憎悪の顔を向ける。床に落ちたゴウオンのもとへは足場がない。狼はそこへと跳躍しようとして、思いとどまる。
やむことのない雨音の中で、ゴウオンの目から魂が消える。……異形に堕ちたカラスが抜け殻を残すことなく溶けていく。