三十二 こんがらせいたか
文字数 3,772文字
半月が去りゆく駅ビルの屋上に、女性が一人横たわる。狼の体は消えていく。カラスと妖怪変化が闇に浮かび、もう一人の人間は立ち去ろうとしている。
妖怪の感情は頂点に達している。
俺は男へと飛びこむ。護符を取りだし、その背に押しつけんとする。劉昇が屈む。前転して起き上がり、振り返る。俺の持つ木札を見る。ついで俺の顔を見る。
俺は空中に浮かびあがり、劉昇をにらみ返す。怒りがこみあがる。弱きものを凍らせる目線を跳ねかえす。
ドーンから戸惑いの声がする。
劉昇が緋色のサテンをひろげる。それを闘牛士のムレタのように持ち、片手に剣をかまえる。
俺は中空に浮かび頭を下にする。木札をかかげ劉昇へと突っこむ。劉昇が布で受けとめる。
……鋼みたいだ。まさに盾と化している。護符の力と布に秘められた護りの術がぶつかりあい、俺は空中へと押しかえされる。劉昇も後ろへとよろめく。
劉昇が天に叫ぶ。ドーンへと雁行の光が向かう。
怒りが鎮まるはずもない。木札をさらに強く握る。憤怒が脈打つように木札へと注がれる。護符を持つ手を伸ばし、また男へと向かう。劉昇が剣をかまえる。
巨大な剣と小さな護符がしのぎを削る。剣は俺を突き刺せない。護符も劉昇へと届かない。おたがいにさらに力をこめ、俺と劉昇ははじき飛ばされる――。
俺は空中で耐える。劉昇が背を向けたまま跳躍する。俺も空中を追う。半月を越えて、劉昇が空中で振り返る。布を地へと落とし、破邪の剣を両手で持つ。
闇空で劉昇が叫ぶ。鋼色の巨大な輪が俺へと向かう。俺は護符をかざし立ち向かう。
巨大な環状の光を、俺と護符は突き抜ける。痛くなどない。衝撃が伝わるだけだ。劉昇は空中で二段跳びをする。上空から、両手で握る剣を俺に向け落下する。
叫ぶ劉昇に赤黒い鳥が突進する。
真の異形と化したドーンが吠える。
劉昇は剣から片手を離し、ドーンへと手のひらを向ける。くちばしを受けとめる。――一瞬だけ、劉昇の剣先が俺とドーンのあいだで揺れる。
刹那に感じる。
劉昇と交差すべく上空へと飛ぶ。剣をかいくぐり懐に入りこむ。
護符を強く強く発動させる。
剣の柄で殴られて叩き落とされる。地面手前でふわりと浮く。
上空へ護符をかざす。
ドーンであった異形へと光を放ちながら、劉昇は俺から離れて着地する。小走りして、俺と横根のあいだに入る。俺からの彼女の盾となろうとする――。
その様を見て怒りが急速にしぼむ。劉昇は俺に剣を向けながら片膝を落とす。
むせて、血を吐いた口もとをぬぐう。
ドーンが露払いのように俺の前へ降りる。
劉昇が横根へと手を伸ばす。おさまりかけた怒りがまたあふれるが、劉昇は珊瑚の玉を握るだけだった。首をかすかに振り、よろめきながら立ちあがる。
風がないのに、緋色の布が劉昇の足もとへと舞う。
ドーンが俺の横へと浮かぶ。
劉昇が再び剣を緋色の布で包む。
よろめきを耐えて歩きだす。非常口に消える。階段を重たげに歩く音だけが響く……。
ドーンが俺の頭に着地する。俺の怒りが消えたから、もはや迦楼羅ではない。俺の頭がお気に入りの止まり木の、ただのカラスもどきだ。
力の抜けた俺が答える。
(ドーンを巻きこむほどに感情をむき出したためか、体中の力が抜けている。……木札もかなり酷使した。握りしめたままの手を開ける。木札は呪符を薄めることなく存在していた。怒りなんかをこめたのに穢れなかった……)
(俺は静まりかえった屋上で考える。川田が復活するのならば、俺は勘違いで劉師傅を傷つけた。でも……、俺の心のどこかで劉師傅を倒すことを望んでいたのかもしれない。桜井を守るために……。
そんな邪な感情をお天狗さんは引き受けてくれたけど、いずれ俺のもとを去っていきそうだ。でも俺だけ守られても仕方ない。あとの四人も人に戻るまで守らないと。それは思玲が言ったように、護符でなく俺の力で……。
(劉師傅に聞かねばならないことがあった。楊偉天の所在だ。
師傅の口ぶりだと、峻計達がいう老祖師は生きているらしい。そいつもじきに現れるのか? そいつは桜井を青龍へとするために……。
ならば、俺はまだ火伏せの札を手に戦わないとならない。もう怒りで我を忘れるなんてしたくないけど、彼女こそ守らないとならない)
ブルブルブル……
(ドーンが俺から飛びおりて、横根へとぴょんぴょん跳ねる。
年ごろの女の子と夜間に連絡が取れないのだから、両親はいてもたってもいられないだろう。彼女は人間の世界に存在しているわけだし。
今は何時ぐらいだろう。妖怪だろうが気にかかる……)
クーンクーンと動物の鳴き声がした。
俺とドーンは振り返る。狼はいなかった。
代わりに黒い子犬がいた。うずくまった子犬が四肢をあげる。俺達を見て、丸まった尻尾を振る。
子犬は俺達へとはしゃぐように駆けてくる。片目は潰れたままだった。
子犬が彼女へちょこちょこと歩く。
自分の前足を見て茫然とする川田の横で、頬を軽くかきながら、横根がまた寝返りをうつ。ぼんやりと薄目を開ける。
目の前にいた柴犬と目があって、小さく笑う。
横根が手を伸ばし、柴犬の頭をさする。
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