四 大峠のお婆ちゃん

文字数 2,636文字

 
事故渋滞だって。お兄さん達、いつになるかしらね
ただでさえ帰省ラッシュなのにな

ナーンダ

(助手席と運転席の会話で、年下のいとこ達が遅くなるのに感づく)
ソウシンじゃま!
うわああん
 俺は後部座席で、小学生なりたての弟をいじめるだけだ。壮信(そうしん)がわざとらしい泣き声をあげる。
哲人!
はーい
 俺は母親に叱られて反省した振りをする。もうじき大峠のおうちだ。じっとなんかしていられない。お婆ちゃんに褒めてもらうために持ってきた、通知表の中身をまた確認する。
もう山だから、窓を開けるよ
 クーラーの中になんかいられない。果実が熟した香りを、窓から顔を突きだして吸いこむ。
(Bチームでゴールを決めたことも教えてあげないと。同級生の半分はまだCチームなんだよって)
 車は田舎道に入り、急な斜面のコンクリートの道を直登する。お婆ちゃんの家には誰もいなかった。
 よぼよぼのシベリアンハスキーだけが尻尾を振っていた。
畑かしら。携帯電話、置きっぱなしだし
僕が連れてくる!
ぼくも!
 駆けだした俺を、弟が追いかける。
哲人。考えて動けとジュニアで言われただろ? 婆ちゃんがどの畑にいるか分かっているのか?


おっ

ブロロロ……
わーい!
わーい!
 父親は俺をとがめたあとに、鍵が刺しっぱなしだなと小さな運搬車を始動させる。俺と壮信は荷台に飛びこむ。
南の畑はやめたから、東の山かも
ブロロロ……
 生まれ育った我が家へと荷物を運ぶ母親を置いて、おんぼろ車は軽油の匂いをまき散らしながら田舎道を進む。
こんにちは、松本といいます。早苗さんは見かけましたか?

 本来は人なつこい父親が運転する運搬車は農道へと入っていく。










 
 
おばあちゃーん!
 荷台にとまったゴマダラカミキリに気をとられて、弟にさきを越された。壮信が祖母に貼りつく。……俺はもう小学三年生だ。こいつみたいにべたべたするのはみっともない。
壮信、おおきくなったね。哲人もひさしぶりだ
 お婆ちゃんは俺へと……、
(僕へとにっこりと笑みを向ける。野良着で手ぬぐいを頭に巻いた、いつものお婆ちゃんだ)
おまんとうに食わせるために、スモモを採りにきてただよ
(ここは土と果物の匂いで満ちている。そのまんま、お婆ちゃんの匂いだ。

 父親がお婆ちゃんの手伝いをして、僕達もその真似事をする)

 
もう出荷はしないのですね。こんなにおいしいのに、もったいない
(スモモの皮を爪でむきながら、父がお婆ちゃんに言う)
ずっと腰が痛くてね。人を雇うのも気をつかうし。こんなに熟したら、もうさすがに無理ずら。

おれはまだ七十手前というのに、すっかり婆さんになっちまってね

 父親が収穫したスモモや農作業具を車に積む。腰が痛くて座席におろせないと、お婆ちゃんがぼやく。
じゃあ、一緒に歩いて帰ろう!
ほうだね。壮信はどうする?
ブロロロ……
 弟は軽油の匂いとともに帰った。僕はお婆ちゃんと二人で急な下り道を降りていく。








でね、四年生のシュートがポストに当たって、僕の前に来たんだよ
ほうかい、よかったな
 お婆ちゃんの家に戻ったら通知表を見せることを約束して、サッカークラブでの活躍を自慢して、これはアブラゼミ、これはツクツクホウシと鳴き声を教えてあげて、これは……、
これはオケラずら。木じゃなくて土の中だ。婆ちゃんはまだまだ耳はいいからな

哲人の話をいっぱい聞くためにな

(お婆ちゃんが笑うと銀歯が見える)


僕、お天狗さんにクワガタをとりにいきたい

 あそこの木を揺らせば、いっぱい降ってくる。
ゆっくり帰ると言ってあるから、ちょっくら寄るか
(お婆ちゃんは僕のお願いはほとんどきいてくれる)
そしたらあとで、みんなで墓参りに行ってこうし。哲人の爺ちゃんも、哲人の一番上のおじちゃんも喜んでくれるら

(僕は二人とも記憶に残っていない)


お婆ちゃんは行かないの?

おれは腰が痛いからね
(お婆ちゃんが腰をとんとんと叩く。家に帰ったら、肩たたきだけでなく腰たたきもやってあげよう)







 

テクテク…

(ガタガタに舗装された道までいったん降りて、べつの林道を登る。両脇が畑でなくなり、道は木陰におおわれる。ひんやりとした山の空気がそこまで来ている。鳥がきれいな声で鳴いているけど、カラスの声しか分からない)

 十分ぐらい登りかえして、ふるびた木造りの社にたどり着く。看板もなにもない。ここから先は未舗装だ。

僕の家のそばにもお天狗さんがあるよ。二月二十二日にお父さんと一緒に登った。

寒くて停電が起きて真っ暗で、すぐに直って金札をもらったよ

てーっ。ここは、へえお祭りさえないのにね
 お婆ちゃんが賽銭箱の前に座り、タオルで汗を拭く。僕は脇にある蛇口から水筒に水を足す。天然水だからおいしい。

哲人が勉強とサッカーに頑張ったから、山の神さんにお札をもらうじゃん

ヨイショ
 お婆ちゃんが立ちあがる。賽銭箱の前で手をあわせて、切れそうにぶら下がった鈴の向こうに手を突っこむ。蜘蛛の巣とともに、ふるびた木札を取りだす。
 
おれが二十歳ぐらいのときかな。ここの神さんがくれると言ってくれた。いりませんって言ったら、いつでも持ちにこいだとよ。

孫にやるぶんにはいいずら

(お婆ちゃんがお札を僕に突きだす。筆箱にちょうど入るぐらいの雷型のお札だ)
 
……。

(なんだか怖くて、僕は受けとれない。急に山の中に二人きりなのを感じる。

 帰りたくなって、お婆ちゃんの目を覗きこむ)

てっ。やっぱり哲人もいらないのけ。

じゃあ、もうちっと置かしてもらうじゃん

 お婆ちゃんは木札を神社に戻し、手をあわせる。


哲人もおがみな
うん!
 僕もお婆ちゃんの横に行き、両手をあわせる。
婆ちゃんは、哲人を守ってくださいとお願いしたんだ。


哲人はなにをお願いした?

サッカーがもっと上手になるように


(そうだ、クワガタの木を蹴っとばさないと)


それと、オオクワガタも捕まえられるように

 お札のことなんかすぐに忘れた。あの稲妻に似せた形は紙垂と呼ばれ、木で作られたそれが、聖域のアグレッシヴな護符なんて知るはずもなかった。夢うつつに思う。
おおきいクワガタでもなんでも、いっぱい捕まえな
(お婆ちゃんが野良着のポケットからスーパーのビニール袋を取りだす。

 さすがお婆ちゃん。僕の必要とするものは、なんでも用意してくれていた)

 
 
 腰の痛みは外科的なものではなかったから、畑にいるお婆ちゃんを見たのは、この夏が最後だったかもしれない。お婆ちゃんは最後まで頑張ったから、病室には何度も何度も見舞いに行ったけど――。



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