四 大峠のお婆ちゃん
文字数 2,636文字
俺は後部座席で、小学生なりたての弟をいじめるだけだ。壮信 がわざとらしい泣き声をあげる。
俺は母親に叱られて反省した振りをする。もうじき大峠のおうちだ。じっとなんかしていられない。お婆ちゃんに褒めてもらうために持ってきた、通知表の中身をまた確認する。
クーラーの中になんかいられない。果実が熟した香りを、窓から顔を突きだして吸いこむ。
車は田舎道に入り、急な斜面のコンクリートの道を直登する。お婆ちゃんの家には誰もいなかった。
よぼよぼのシベリアンハスキーだけが尻尾を振っていた。
駆けだした俺を、弟が追いかける。
父親は俺をとがめたあとに、鍵が刺しっぱなしだなと小さな運搬車を始動させる。俺と壮信は荷台に飛びこむ。
生まれ育った我が家へと荷物を運ぶ母親を置いて、おんぼろ車は軽油の匂いをまき散らしながら田舎道を進む。
本来は人なつこい父親が運転する運搬車は農道へと入っていく。
荷台にとまったゴマダラカミキリに気をとられて、弟にさきを越された。壮信が祖母に貼りつく。……俺はもう小学三年生だ。こいつみたいにべたべたするのはみっともない。
お婆ちゃんは俺へと……、
父親が収穫したスモモや農作業具を車に積む。腰が痛くて座席におろせないと、お婆ちゃんがぼやく。
弟は軽油の匂いとともに帰った。僕はお婆ちゃんと二人で急な下り道を降りていく。
お婆ちゃんの家に戻ったら通知表を見せることを約束して、サッカークラブでの活躍を自慢して、これはアブラゼミ、これはツクツクホウシと鳴き声を教えてあげて、これは……、
あそこの木を揺らせば、いっぱい降ってくる。
テクテク…
(ガタガタに舗装された道までいったん降りて、べつの林道を登る。両脇が畑でなくなり、道は木陰におおわれる。ひんやりとした山の空気がそこまで来ている。鳥がきれいな声で鳴いているけど、カラスの声しか分からない)
十分ぐらい登りかえして、ふるびた木造りの社にたどり着く。看板もなにもない。ここから先は未舗装だ。
お婆ちゃんが賽銭箱の前に座り、タオルで汗を拭く。僕は脇にある蛇口から水筒に水を足す。天然水だからおいしい。
お婆ちゃんが立ちあがる。賽銭箱の前で手をあわせて、切れそうにぶら下がった鈴の向こうに手を突っこむ。蜘蛛の巣とともに、ふるびた木札を取りだす。
お婆ちゃんは木札を神社に戻し、手をあわせる。
僕もお婆ちゃんの横に行き、両手をあわせる。
お札のことなんかすぐに忘れた。あの稲妻に似せた形は紙垂と呼ばれ、木で作られたそれが、聖域のアグレッシヴな護符なんて知るはずもなかった。夢うつつに思う。
腰の痛みは外科的なものではなかったから、畑にいるお婆ちゃんを見たのは、この夏が最後だったかもしれない。お婆ちゃんは最後まで頑張ったから、病室には何度も何度も見舞いに行ったけど――。
次回「夢物語にようこそ」