二十六の二 夢見るは人

文字数 2,594文字

……。
……。
 思玲が開いたままの自動ドアを抜ける。外への扉は閉ざされていた。彼女が背筋を伸ばす。
あいつらがいるかもしれない。だとしたら、お前は空に逃げろ

ガラッ

 俺の返事も聞かず扉を開ける。夕涼みのような外気が吹きこんでくる。
ニャッ
スタスタ

 人と妖怪のいきなりの登場に、黒猫がびくりと逃げていく。入学当初から学校に居ついていた痩せた野良猫だ。

 異形のものはどこにも見あたらない。外にでた思玲が西日に照らされる。

いないのなら、あいつらと合流するか
チリチリチリ…
 彼女はポケットから草鈴を取りだす。自分達の無事を鈴の音に乗せる。桜井へ向けて、こっちに来るなと強く笛を鳴らす。
まずは瑞希を探す……。だが、すこしだけ休ませてくれ

ドサ

 思玲が石段にしゃがみこむ。張りつめていた気をようやくゆるめる。
(このまま休んでいてもらいたい。俺だけだと、桜井達と合流したところで一緒に空を逃げるだけだ。なのにタイムリミットがある。逃げ続けることも許されない……。

非力すぎて、悔しさを通りすぎて悲しくなる)

門ダケデナク、教授ノ部屋モ壊シテクレタラ云々
ハハ、ヤバ
 院生らしい若い男性が二人、談笑しながらやってくる。思玲を一瞥するが、そのまま通り過ぎる。
……。
 男子学生も一人現れる。スマホだけを見ながら正門方面へと去っていく。と思ったら、
…………!
チッ
 うずくまる思玲をちら見する。立ちどまり凝視したあとに、スマホに目を落としやっぱり去っていく。
(彼女は目立ちすぎだ。西日を背に受けて、また人がこちらへと近づく)
 
ここは人が通ります。そんないでたちだと不審がられます
 俺は彼女の肩をつかむ。傷だらけの思玲になおもうながす。
かまわぬ。ここの人間は、すすんで人に関わらない
(東京の人間だって、みんながみんな無干渉ってわけではないだろ。そら見ろ。この女の子だって、遠巻きに思玲をじろじろ見ている)
……。
(……いや、不安げに思玲を見つめている。俺も小柄な女の子を見つめかえす――。
 今の俺は喝采などあげられない)
…ヨシ

 彼女は意を決したように歩み寄る。昨日までよく見なれた女の子が、小さめな麦わら帽子をかぶり、大きなカバンを抱えてやってくる。

思玲……。横根です。横根が人に戻っている

なんだと?

スタッ

たしかにあそこにいたな……。だが、もっと強そうな者だと思いこんでいた。こんなに華奢な娘だったのか

 痛々しさを消し去さろうと凛とした姿勢で石段を降りていく。
ダ、大丈夫デスカ? 怪我ヲシテイマスヨネ
(横根はすこし怯えた感じで彼女を見る。真横に浮かんでいる俺に目を向けない。おそらく俺は見えていない)
……瑞希はなんと言っている?
 思玲が俺にしか聞こえない異形の言葉を放つ。
思玲の身を心配しています
 俺は横根を見ながら答える。
??
(こんなにかわいい子だったのだと、あらためて思う。なのに、ただの人間かとも感じてしまう。

 妖怪になると、ぼろ雑巾みたいな思玲に惹きつけられる)

ノーサンキュー、シェーシェー
海外ノ人デスカ? エート、メイアイヘルプユー?
(思玲は彼女へときつい目を向けるだけなのに、横根はくりっとした瞳で思玲をまっすぐに見上げる。さきほどまで何度も抱きかかえられた人だとも知らずに)
マツモトテツト、カワダリクト
ワドシュン……、ドーン、サクライカナ。……ワンスーリン
エッ、ダ、誰デスカ
オーケー、センキュー、ソーリー

ジロジロ

(思玲はなおも横根を見つめる。ささいな瑕疵を探るかのように……。彼女がなにかに気づく)
イッツ、コーラル
(思玲が横根の胸もとを指さす。首にまわした麻糸の先に、赤い玉のペンダントが揺れている。珊瑚の玉……、海神の玉だ)
エッ、イッツイズ、プレゼント。フロム、マイ、プレシャス、フレンド
(この珊瑚は大切な友人からの贈り物だと、横根は思玲に伝えた)
イッツ、ビューティフル。アンド……


それを捨てたりするなは、英語でなんと言う?

(思玲が話の途中で、俺に心の声をかけてくる)


日本語で伝えてくださいよ

アナタニ似合ッテマス。イツマデモ大切ニシテクダサイ
キョトン
(俺がアレンジした日本語を、思玲がたどたどしく口にだす。横根はきょとんとしている)
哲人、日本の別れの言葉を教えろ。道中無事を祈る言葉も教えろ
……。
 俺に命じながら、思玲は鼻血のかたまった顔に無理やりやさしい笑みを浮かばせる。
サヨウナラ。気ヲツケテオ帰リクダサイ。ワタシハ平気デス
 思玲は俺が教えたとおりのセリフを伝える。
(うまい言葉が見つからなかった)
…………。
 横根は心配そうなままだが、ちらりと腕時計を見る。やはり無理やり作った笑みを思玲に向ける。
アナタモ気ヲツケテクダサイネ。ソコノ事務所ニ職員サンガイマスカラ……
 俺達に背中を向けて歩きだす。

 西空の縁が橙色へと変わりゆくなか、横根は一度だけ振り向く。

……。
バイバーイ
…ペコリ
 気がかりを隠した小さな笑みで会釈をする。正門のほうへと去っていく。
(一度も俺と目をあわすことなく)
瑞希は大丈夫だ。あの玉が護ってくれる。私のときなど輝いてもくれなかったくせに
 横根が角を曲がり見えなくなると、思玲は石段へとしゃがみこむ。眼鏡をはずす。
完璧に人に戻ったぞ。哲人の仕業だ
 俺は感情が混ざりあって、思玲へと言葉が返せない。ただ……、これだけは聞きたい。

横根はもうあっちの世界に行ったから、俺達のことを覚えてないのですね。


でも、俺達も人に戻れたなら、また思いだしてくれますよね

いかにもに決まっているだろ
 思玲が手で顔を覆う。
そして私のことを忘れようが、私はいつまでもお前達を覚えていてやる。

……哲人も人に戻ってくれよ

……。
(じきに夕焼けがひろがりそうな空だ。人であったときは気にもとめなかった空だ……)
“胡蝶の夢よ”

(峻計があざけりながら言った言葉を、人でなくなった俺が思いだす。もとは漢文だ。

 蝶になり、愉快に舞う夢を見る。目が覚めて思う。あの夢を見た自分が本物か、もしくは夢の中の蝶が本当の自分か――、そんな内容だった。

 それをたとえにあいつは、異形となった俺達を嘲笑した……)

……ア、ソウダッタ!

(でも結んだ黒髪に空色のワンピースの横根を見て、あらためて確信した。

 俺達は異形などでない。この悪夢を見ている俺達が本物だ)

……。
(あと四人。必ず人に戻ってやる)



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