十四 波濤の先に

文字数 3,275文字

“ニコニコ”
 最初の記憶は、若い母に抱かれて笑顔を見あげたものだった。噛みしめる時間もなく、記憶の波濤が押しよせる。不都合な記憶に上書きされた、偽りの記憶だけを求めて。
“哲人”

 小学校、中学校、高校……、十八年分の記憶が刹那に確認されて、格納されなおす。大学の入学式から、押しよせる波がゆるく大きくなる。

“こんなの直感だし。だよね?”
 時計台の下の新人勧誘、間近で見た誰かの笑顔……。そこで五人は知りあった。
“松本”
 川田の部屋だ。そうだよ、川田陸斗は存在した。こいつの顔をまじまじ見たいのに、本来の記憶に立ちどまれない。
“カカッ”
“……。”
 ……三人で歩いたナイトウォーク。俺の横をはなれて歩いた女の子……。噛みしめたいのに、記憶の流れが待ってくれない。
て、哲人、大丈夫か。しっかりしろ
 地面にもだえる俺への、思玲の声が聞こえる。
“松本君こそ”
 一年の冬の日の二人だけの時間。やり直しのハイタッチ。互いの手を握りかえし見つめた一瞬……。それすらも立ちどまってくれない。
吐いているぞ。ドロシーは魔道士だろ。なんとかしろよ!
オドオド
 ドーンとリクトも俺を覗きこんでいる。リクトじゃない。川田だろ。
“じゃあね!”
 記憶の流れはゆるやかに見えて濁流だ。彼女は台湾に旅だった。感情を消されて戻ってきた。
悪いものを食べたのだろ。吐きださせてやりな
ふざけるな!
 フサフサの冷徹な声に、女の子が言いかえしている。もうじき記憶の中の思玲とも会える。
“ニコニコ”
……。
 図書館の石段で待っていた二人、カフェテラスのテーブルを囲んだ五人、
“……。”
“ウー”
“ガーガー”
 ひと足先に異形と化した三人。
“ゲットアウト!”
 人であった俺に指図した思玲……。そうだよ、この強くて弱くて粗雑で目を引く美人こそが王思玲だ。
“みんなに謝りたいのに無理っぽいね”
 俺へと切ない笑みを向けた桜井。青い光をともに受けて消えていった桜井。なんでこの笑みを忘れたんだ。忘れられるんだよ。
首が痛むの?


キャッ

 ドロシーが俺に祈りを捧げようとする。俺は払いのける。
……異形になった俺に扇を振りまくった思玲
真実を怯えながら告げた思玲
二人きりの夜道で見あげる白猫……
お爺さんの幽霊、おぞましき怨霊達、
お天狗さんの木札――
 俺はたしかに持っていった。そんなことよりも……、
“フン”
 うす汚れた毛むくじゃらの野良猫。
フサフサ!
 俺は立ちあがる。俺達を助けてくれた野良猫へと駆け寄りたいのに、上書きされた記憶の修正はまだ続く。
“……。”
 流範の巨大なくちばしを思いだし、また座りこむ。地面に手をつく。
“青龍の光を私が9.9受けて、松本君が0.1だけ受けていた”
 青い小鳥。さらされた真実。駆けていく白猫……。

 妖怪のくせにまた嘔吐する。えずくたびに首の傷が裂けそうだ。……朝が来た。

“カラスが嫌で人間に戻りたいのだな。それなら俺がおまじないをかけてやる。特別にだ”
“目の前にいる哲人達だけなら”
“かしこめよ


 カモタケツノミノミコト!


 なんにでもきくカラスのおまじないだ。じゃあな”

 ドーンと受けたカラスのまじない。
“でも私はみんなを呼んでしまった。……みんなを選んでしまった


 本当にごめんなさい。みんなだけは、なにがあっても人に戻ってください”

 非常階段の踊り場の六人。桜井の声で頭を下げるコザクラインコ。
 青空の下のカラス達。俺が殺した。

 思いだしたくない記憶が続く。腹を裂かれた白猫、土砂降り、

溶けていく流範と
浮かびあがる人の魂
目に傷を負った狼……。あの時の傷だ……
クーンクーン
 俺の頬を舐める異形の顔をさすろうとする。必ず人に戻してやると。なのに、まだ手が届かない。
 大ケヤキが枝を空へと伸ばしている。大学のシンボルだった。なんで誰もが忘れているんだ。記憶から消せるんだ。ケヤキの下でのひとときの静寂。
あさましい鬼達
浮かぶ小鬼
琥珀……

 俺は声をしぼる。

 ドロシーがなんと言おうが、あの小鬼を連れ戻す……。記憶が修正をためらった。

“哲人君”

 あいつのあざ笑う顔が浮かぶ。黒羽扇の光――。

 背が折れるほどにかがんで嘔吐する。

哲人、消えるな

 女の子が俺を抱きしめる。あの時も、思玲は俺を抱いてくれた。

 弱い二人が目ざしたのは図書館。

 地下室の乾燥した空気。聖なる術と邪悪な気配……。
“ホホホ”
“キキキ”

 フクロウとコウモリ。ロタマモとサキトガ。

 怒りがこみあがる。怒りが力となる。

“みなを守るだけだ。そのためだけに我々は存在を許されるのだから”
思玲!
(密室での絶望的な戦い。盾となってくれた少女を抱きしめかえす)
(のけぞって拒絶しやがる)
“フロム、マイ、プレシャス、フレンド”
 人に戻った横根。あざやかな夕焼け。あざやかすぎる夕焼け。
怖いほどの夕焼け。
川田を傀儡にした峻計
横根を傀儡にした峻計
俺に邪悪な光を当てた峻計
桜井の怒り!
横根の祈り!
 あの二人は今どこにいる。そして……、
思玲、ごめんなさい……。ゆるしてください
 ……半月の下、劉師傅に押しつけた護符。
……。
 
(思玲は俺をやさしく抱きなおす。なのに野良犬を思いだす)
“見えない妖怪が、もう一匹いるんだよな。そいつが群れのリーダーだろ?


 そいつと会える日が楽しみだな”

 昼間の人の形をした異形も思いだし、嘔吐をこらえる。
“この男に代わって聞く。剣が輝くならば――”
 フサフサ、劉師傅、月神の剣。俺は座敷わらしでなくなった。
“ウングォー”
“カサカサ”
“哲人……”
 テニスコート、焔暁、竹林、手長、多足の毒、血を吐いたカラス、琥珀のスマホ……。
“……。”
……。

(記憶の中でにらむ峻計を、俺もにらみかえす)

哲人、あれは冗談だ。いくらでも呼んでおくれ

(強い声に呼び戻される。フサフサであった白人女性が俺を深く見ていた)

ひと足早く異形になった哲人が、助けを呼んだのだろ? だから白い光が私に来たのだろ?

それからも四六時中私を呼んでいたじゃないかい。いいのだよ、もっと頼っておくれ

(そうだったんだ……。ならば、もう少しだけ頼ってやる。俺は自分の手で立ちあがる)
“しかも、こいつは腹を減らしている”
“それは今の心だから、それをなくしちゃ駄目だものね。絶対に”
“最高の選択に変えてやる。最後ぐらいは”
 記憶の渦は続いている。悲しげに一人でいた桜井。ロッカーにかばんを押しこんだ横根。

 陽炎に閉ざされた雑居ビル……。

なにがあったの? でも、もう大丈夫みたい
 ドロシーが俺を怯えて見ている。
鱗がなくなっちゃったね。やっぱりこっちのがいいかも。ヘヘ……
 その手を握り、彼女を立ちあがらせる。
ツルリ
 シノの手も握ろうとして、彼女の手はふわりと流される。
“ヒヒヒ”
“ホホホ”
“ヒヒヒ”
“キキキ”
“ヒヒヒ……”
 記憶は露骨になっていく。楊偉天、使い魔達、楊偉天、楊偉天……。
 

 力尽きた劉師傅。

 もうたどる必要などないだろ。

“哲人、頼んだぞ”
“はやく人になってみな。見届けてやる”
“明王の端くれから燃やしてやるぜ”
新月はいつだ?

 俺は誰ともなく尋ねる。

 剣と箱。犠牲となった思玲。蘇った峻計。消滅した焔暁。もうすべて思いだしているのに。

ふん。満月と真逆の夜だろ?

明晩だよ。いけ好かない夜だ

 やはりな。ぎりぎり間に合った。
力尽きたドーン
いなくなった川田
神殺の鏡……
“松本君、もういいって”
俺の手から離れた桜井。夏奈の切なげな笑み
 二度と忘れるものか。
だったら箱をリュックに入れてよ
 俺はフサフサに頼み、
ドロシー、もう少しだけ貸して
……ハッ
うん!
 俺の手を握りかえし、彼女はうなずく。律儀な記憶の復活もじきに終わる。
“松本君、助けて!”
俺へと助けを求めた女の子。俺へと絶望の目を向けた女の子。溶けていく意識のなかへ
『新月まで娘は捧げない。ゼ・カン・ユ様にな。

 お前と違い、私達は約束をたがわない。お前が覚えていなくてもな。ホホホホホ……』

 そして、すべてが虚無になった。







行こう
 俺は口もとをぬぐい、ドーンと川田に告げる。
……。
……。
まずは横根を救う



次章「2-tune」

次回「人の形」

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色