桜井が目をさらに大きくする。でかい犬が彼女の脇にいた。暑さにやられたのか目がうつろだ。
(獰猛な黒い狼みたい。むかし親戚の家で飼っていたシベリアンハスキーよりずっと大きくて野性的……。
首輪がない?)
気をつけたほうがいいよ。その犬は
俺と彼女のあいだのデッキチェアに、白い猫が怯えたようにうずくまっていた。
彼女は犬の頭ごしに手をのばし、その猫もやさしくさする。野良犬かもしれない大型犬に無防備で、見ていてハラハラする。
ふいに俺の顔を見つめる。
白猫と目があった。毛なみは手入れされているから飼い猫だろう。震えて見ひらいた目が子猫みたいでかわいい。
せっかく桜井とテーブルを挟んでいるのに、なんだか不穏な空気に包まれている。カラスの一団が鳴きながら旋回しているせいだ。足もとでもガーガーと鳴いていやがる……。
……。(羽根でも折れて飛べないのか。だから上空で仲間が心配しているのか。しかしカラスはそばで見るとでかいな)
片言英語の怒鳴り声に、背骨が垂直になるほどに驚かされる。長髪で眼鏡のお姉さんが俺達をにらんでいた。
長身できれいな人だ。日ざしの下で仁王立ちしている。
(大学院の留学生かな……。桜井と一緒だから、余計なことは考えないようにしないと)
金属製の箱の中で黄色い布に包まれて、やけに大きな透明のビー玉が三個と、青色の玉がひとつ輝いていた。
木札をポケットに突っこんで、命ぜられたままにふたを閉める。
単語の羅列で意思が伝わる。青錆びた箱を木の箱にしまう。
妙な鳴き声をあげて向かってきた。とっさに身がまえるが、その必要もなく犬はつんのめる。また前脚をあげて尻尾を振りながら俺へとかかってくる。また転ぶ。
白猫が椅子の中でさらに縮まる。地べたのカラスがガガッと悲鳴のように騒ぐ……。邪魔者だらけだ。
お姉さんまでテーブルに来た。チェックのシャツとジーンズ姿で、小ぶりなショルダーを肩にかけている。桜井をにらむように見つめる。
彼女は犬と猫を撫でたあとに空を見上げる。カラス達をにらみつける……。
留学生をとやかく言うのは避けたいけど、なんだか風変わりな人だ。俺の足もとのカラスにも気づく。侮蔑の面持ちのなかに憐憫の眼差しが浮かんだような。
カラスが俺の足もとに隠れる。お姉さんはようやく俺に目を向ける。
(用事がすんだら退出しろだと?)カチン
※以下英語
私達はくつろいでいるのに、あなたはなにを言うのですか?
この騒ぎはあなたが起こしたのですか? どういう理由をお持ちですか?
受験レベル英会話に、お姉さんはぎょっとした顔になる。さらに畳みかけてやろうと思ったが、気になったことをゆっくりと質問する。
この犬や猫はあなたのペットですか? あなたは中国からの留学生ですか?
ペット? チャイナ?
……ノーペット。
ノー、チャイニーズ。アイ、アム、タイワニーズ!
台湾人?
やっぱ大事なこと忘れてる。あのカラス達が知っているよね?
カラスはさらに増えていた。まわりにいた学生達も気味悪がって、ちらほらと立ち去っている。台湾人のお姉さんも上空をちらりと見上げる。手をかざして太陽の方角をまじまじ見る。
舌を打ち振り返る。
白色の扇子? 広げるとお香が漂う。俺達を囲むように駆け足で舞いだす。
(これは京劇の舞踊かな。優美でしなやかでスピーディ。この状況下で見とれそう)
彼女はテーブルを一周して扇子をたたむ。短い時間の舞いなのに息がやけに荒い。
ふと日常から隔離された気分になる。ガラスごしに世界を見ているようだ。
お姉さんは手で額の汗をぬぐい、文句のひとつも言いたげな顔を俺に向ける。手の中の木札が、ずしりと存在感を増す……。
ポケットに入れたのに、無意識につまみだしていた。
ブワサ
羽音のように風が抜けていった。桜井の前髪が揺れる。お姉さんが青ざめる。
上空ではカラスの数が異常だ。カーカーアーアーと鳴きわめいている。学生からの不安げな声も聞こえる。厄災が寄ってきそうで、撮影するのもはばかれる光景だ。
また突風がくる。……鋭くてぬるい風。
黒犬が小さく吠える。お姉さんが顔をかばうようにしゃがむ。さらに風が突きぬける。
お姉さんは再び扇子をひろげる。剣舞のようなパフォーマンスを始める。胸もとで赤いペンダントが揺れるのが見えた。
(不安過ぎ)
夕立前の風かな。駅カフェに移動しない?
足もとのカラスがわめきながら羽根を押しつける。どれもこれも薄気味悪い。
忘れていたこと、やっぱりカラスが教えてくれた。
瑞希ちゃんと川田君と和戸君……。松本君も思いだせた?
せわしく剣舞をくりひろげるお姉さんが、桜井を横目で見る。切迫した顔で中国語を叫ぶ。
桜井は木の箱を開ける。俺が閉まった青錆びた箱をまた取りだす。
滅茶苦茶にかわいくて切ない笑みを俺にだけ向ける。その箱も開ける。
青色の玉が輝いている。木札が手の中で燃えはじめる。
熱さなど感じていられるか!
桜井と見つめあう今だけが存在している。
ストップ、ハー! アイ、キャンノット、タッチ、ザ、ボックス!
その娘をとめろ。私は箱に近寄れないから、貴様に頼むのだ
我に返る。カラス達が四方から笑い声みたいにわめいている。木札が熱い。なにかが起きている……。
俺はパニックになりかけている。カラスの半分ほどが地上に降りて俺達を遠巻きに囲むのを見て、声をだして逃げたくなる。何十羽いるのだろう。奴らの視線は俺達だけに向けられている。
お姉さんの眼鏡が落ちた。彼女は自分の頭をはらう。
頭上から嵐のような突風。お姉さんがよろめき、ショルダーが肩から落ちる。シャツの背中が汗でびしょ濡れだ。
彼女は観念したように玉へと手を伸ばしていた。
桜井はなにかに憑りつかれた。いつだかそう感じたはずだ。……桜井がどこかに連れていかれる!
俺は手を伸ばし、彼女の手をはらいのけようとする。反対の手で木札を握りしめたままで。また突風が近づく。
桜井が青い玉に触れた瞬間、俺の手が重なる。
強烈なコバルト色があふれだし、俺は吹っ飛ばされる。
次章「1.5-tune」
次回「セカンドコンタクト」