遣らずの雨

文字数 1,867文字

3-tune




ありがとう。でも、かまわないでくれ
 この人は雨で濡れた体を拭きもせず、タオルを突きかえしてくる。白いシャツに濃紺のデニムなんて着こなしが様になる背高く魅力的な人なのに、この人からは心を落ち着かせないものが漂う。
お客様がどうおっしゃられようが、航空法により認められておりません。どうかお好きなお席にお座りください

 それでも私は言い張らなければならない。

 この豪奢な内装と今から堪能できるサービスにも、この人は納得してくれない。あり得ない要望を並べるだけだ。

頭をあげられないほど、世話になった人がいたとする
……。
 私をじっと見つめてくる。私の心に怯えが走る。
その人が道をはずれたといえ、大恩ある人に刃を向けた者が、斯様な椅子に座るべきではないだろう
 なんのたとえだろう。ここから逃げだしたくなる。
您好(ニンハオ)
 白人機長が客席にきて安堵する。チャーター専門小型ジェット機の金額に見あった実績ある人だ。唯一の乗客へと顔を向ける。
きわめて遺憾としか言いようがありませんが、会社からも両国からも了承がおりました。なのでご要望に沿わせていただきます。

安全なフライトを心がけますが、責任はすべてあなたにあることをお忘れずに

……。
 武骨な機長が踵を返す。ついてこいと英語で私に言う。
おとといの桃園の騒ぎから始まって、ろくでもないことばかりだ
どういう人ですか?
 私は小走りでうかがう。

乗客名簿はブランクのままだ。

あの若造はとんでもない金を払った。くそがつくほどの額だ。しかもキャッシュでだ。本社のロビーを紙幣で満杯にして、役員どもが裸でダイブしたらしいな

 機長は切りかえしに困る言いまわしを使う。
おもて社会の人では……
 私は言葉をにごしながら尋ねる。

裏だか闇だか知らないが、そっちの人間だろうな。しかも、くそ顔がきく。

さらには今回のフライトに日本からの了承がおりた。ことなかれで横柄で四角四面の、くそジャップがだぞ

では、あの方の言い分に従うのですか?
 この国で一番贅沢なフライトを貨物室で過ごすなど、常人ではあり得ない。……あの人が常人であるはずがない。数分のやり取りだけでも、私には分かる。目をあわして会話をするだけで、背中に冷や汗を感じた。
最初の一分で後悔するさ。向こうに着くまで俺の知ったことではない。

だがあれだけは、くそがこびりつこうがしないと、よくよく言っておけ。閉じこもっていろとな

……。
 機長がコクピットへと消える。今回のフライトの唯一の客室乗務員である私は、やはり唯一の客であるあの人のもとに戻る。




……。

 彼は自然体で立ったままだ。……私は多くの著名人の搭乗に居合わせてきた。富豪、映画俳優、スポーツ選手……。この人からは、いずれにもないオーラが漂う。ただの人である私を怯えさせるオーラが……。

 それでも私は、台湾で一番のCAの誇りをこめた笑みをかける。

私は貨物室にご一緒できません。なにとぞご了承ください。……フライト中にハッチを開けることは、さすがに許可がおりませんでした
それは飛行機が落ちるからか? この雨で飛べないのと同様に
 この人は子供のような目でまっすぐに見てくる。
おそらく
 私は笑みで返す。きっとひきつった笑みだろう。
……一瞬ならば大丈夫だろ
 この人も笑みを返してくれる。
すぐに外から閉める
……。
 一緒にいるだけで息が詰まる人でも、疲れた笑みだとしても、冗談は言えるのだ。
承知しました。ごゆっくりとお過ごしください
 私も皮肉をこめた言葉を返す。
ありがとう。……事件のあった地点は必ず飛んでくれ
 この人は、政府の透かしが入ったネットニュースのコピーと航空図を機長に見せていた。東京の悪童に大学校の門や寺院の墓地が破壊された、というローカルニュースだった。
近づけば、私には分かるから
……。

 この人は、立つこともできぬ小さな貨物室に向かうために機外へでていく。私は乗降口で見おくる。


 外はまだスコールだ。この人は叩きつける雨にも傘をささない。緋色のサテンで包まれた細長い荷物しかもっていない。

 あれは刀だと、いやでも分かってしまう。東京に到着したときにこの人はもう機内にいないだろうと、いやでも思ってしまう。私みたいなありふれた人間が関わってはいけない人だと、いやでも気づいてしまう。

 泣き喚き引き留めるような荒天がおさまれば、この小型ジェット機は優先的に離陸する。夜には日本に到着するだろう。
……。
帰路が二人だったら幸いだ
 この人はタラップを降りながら言う。
そのときは彼女だけでも座らせてもらおう



次回「火灯し頃」

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