十九 村雨の逃亡者
文字数 3,864文字
片方の目が黒い血でふさがっていた……。
逃避していた事実が面前だから背けられない。怨霊や流範の吐きだす液体のように、白猫の血も黒かった。青い鳥の血も。おそらく見えない俺の血も。シャツを染めた思玲の赤い血以外は。
川田が屋内の奥へと歩きだす。
俺がお寺にいたときに聞いたのだろうか。だからと言って無理を重ねたら、人に戻る前に消えてなくなる。大カラスのように溶けてなくなる。
ゴウオンが消え去ったあたりへ手を合わす。
川田は勝手口らしきもとへ行き、風にあおられるベニヤ板を押してくぐる。
人の魂が消えた闇にも手を合わせ、川田のあとを追う。
外にでるなり雨が叩きつけてくる。空のうなりも聞こえるけど、雷は遠ざかっているようだ。
マジびびった。だってカラスで外に一人だろ。雷だらけだし、夏奈ちゃんの笛が聞こえたときはマジで涙がでた。瑞希ちゃんも無事なんだよね。あれは天使の呼鈴だった……。ちょっと詩的? て言うか、目を怪我してね?
靄がかかった前方から車が近づく。回転灯が見える。パトカーは俺達を通り過ぎたところで停車する。
川田が走りだす。俺はかろうじて狼の尻尾にしがみつく。景色が流れだす。俺の前で、ドーンが羽根を小刻みにひろげてバランスをとる。
今のところパトカーは追ってこない。カラスと座敷わらしが乗っても、狼の体は余裕があった。
昼過ぎから始まった夕立はピークを過ぎたようだけど、まだまだの降りだ。桜井が鳴らす草鈴がまた聞こえる。俺達を心配する響きが含まれている。
前方の交差点をパトカーが通過する。
川田が駆ける足を速める。交差点で警察官とぶつかりそうになる。
やはりパトカーがサイレンを鳴らすことなく背後をついてくる。
川田がぼやきつつも従う。
ドーンが羽根を震わした雨しぶきが俺にかかる。
雨がまた勢いを増す。前方で回転灯の光が通り過ぎ、川田が路地の脇に寄る。しばらくしても警察官は現れない。今は土砂降りな雨だけが俺達の味方だ。
(でかい狼がうろうろしているだけで大騒ぎしやがって……。
俺も人間だったら、人の手を放れた大型犬に駅周辺でうろつかれたら、こころよくはないだろう。しかも夏休みだ。子供が気ままに動きまわる時期ならば、大人も警察も必死になる)
俺も人間だったら、人の手を放れた大型犬に駅周辺でうろつかれたら、こころよくはないだろう。しかも夏休みだ。子供が気ままに動きまわる時期ならば、大人も警察も必死になる)
川田とドーンが同時に体を震わせ、水しぶきを盛大に受ける。撥水の体でもうっとうしい。遠く離れた雷が聞こえる。川田が用心深く路地から顔をだす。
草鈴がまた聞こえる。返事がなくていら立っているようだ。俺は懐を探り、木箱に乗った草鈴を取りだす。口にくわえて何度か息を吹きかける。
ようやく情けない音がした。
すぐに桜井から喜びの返事が来る。無事なのは伝わったようだ。
わるかった。
(全員がじれている。はやく思玲達と合流したい。それでも夜になるまでどこかに隠れるべきか……。
流範から人に戻る方法を聞きだすなんて企みは、それぞれが傷を負うだけで失敗に終わった。残された時間は確実に消えている。とにかく五人、いや六人で集まらなければ)
徒歩で警らすることなくパトカーは去った。
まず俺が前方へふわふわと浮かんでいく。四辻を見まわし、見えない手で大きく丸をえがく。
川田がこそこそと道の隅を歩いてくる。車が来てはっとするが一般車だった。川田とドーンに水たまりを飛ばし去っていく。
川田が歩みを速める。
俺は次の曲がり角のコンビニまで進む。駅に近くなり商店などが目立ちはじめる。傘をさした人間も複数見かけるが、東京だから仕方ない。俺は両手で三角を作る。
狼は躊躇せずにやってくる。
人間は川田を見ると一様にぎょっとする。壁にはりつき、放し飼いの特大犬を避ける。
目立たぬように川田の上で這いつくばるカラスに尋ねる。
(ならばフリマ開催の緑地公園を横ぎるか、駅へと続く線路沿いの小道を進むかだな。どっちも距離的には同じぐらいだが、最終的には計六車線のでかい道(旧街道であり現国道)を、よほど運がよくなければ、たっぷりと信号待ちして渡らざるを得ない。歩道橋は遠いし狼が渡るのは……)
とにかく俺が先行する。フワフワ
雨は小ぶりになってきた。線路の側道を見て両手でバッテンを描こうとして、思いとどまり三角にする。
ドーンが川田の頭へと跳ねる。
線路沿いの一直線の歩道は、土曜の昼下がりをかき乱した夕立の直後だろうと、人間が多い。
一羽のカラスが雨を断ち切るように飛んできた。
ミカヅキが上空を一度だけ旋回する。またたく間に去っていく。……インコってのは、まず間違いなく彼女だろうな。
ドーンがブワサブワサと重たげに羽ばたく。しぶきをたてながら宙に浮かぶ。
狼が線路沿いを小走りする。ドーンが先の電柱にとまる。俺もふわふわと追う。
道をゆずるように避けた若者が、川田へとスマホをかざす。
脇道から、合羽を着た警察官が四人現れる。息を整えながら狼を見つめる。やはり川田は指名手配犯だった。
先頭のおまわりさんがしゃがんで笑みを浮かべる。川田へと手招きする(犬を信じた悪意のない顔だ)。その背後の一人は、後ろ手ででかい棒を隠しているつもりだ。
後方の一人は、
駅側の人達に叫んでいる。最後の一人は無線(スマホ?)で喋ったあと、俺達の背後を見つめる。
川田は速度をゆるめるどころか、警察官へと跳ねるように駆けだす。
ドーンが叫びながら歩道へ急降下する。前方の警察官二人の上で威嚇の声をあげる。
一人がさすまた(初めて見た)でドーンを追いはらおうとする。その横を川田が駆け抜ける。残りの警官が並んで道を封鎖する。
暴走する狼に、警官達はなすすべもなく道を開ける。
念じながら、俺も脇をすり抜ける。
彼らは共犯者が真横に浮かぶのに気づきやしない。次なる対策に追われている。
警官の一人が制帽を取り、顔の雨水や汗をぬぐう。気づくと雨はやんでいた。
俺は一息つく代わりに見上げる。
ダークグレイの空に明るみが差している――。
次回「出会った時を思いだす」