第116話 あなたは誰?
文字数 2,469文字
委細隠し事無き間柄というのはどういう関係が想定されるだろうか。
夫婦?
ちがう
恋人?
ちがう
友達?
ちがう
親子?
そんなわけない
「答えはね。師弟だよ」
「わかる」
なぜかっていうとね、目的が明確だから
弟子が師事するその事柄がより娑婆で必須の事柄であればなおさらだ
補足するならば、娑婆で特になくてもよいけれどもあってもよいということにおける師匠は、位ばかりが高くて世辞にも世事に明るいとは言えず暗い。
「法の師弟をもって最上となす、だよ。モヤ」
「シャム。あなたとその『恩人』の関係は?最初からお師匠さまだったの?」
「わたしは遭ったことがない」
「それってどういう」
「わたしを生まれることにして、それからすぐに亡くなったから」
「シャムを生まれることにした?」
「そう。無精卵って知ってる?」
「うんわかるよ。今の鶏卵のほとんどがそうだよね。受精しなくても卵を産んで、ひよこが生まれる可能性ゼロの卵だよね」
「わたしは無精卵から生まれたんだよ。恩人のおかげでね」
別に古の西洋の聖人が処女から生まれたとかそんなことは別にほんとうだろうが勘違いだろうがどちらでもよいのであって、わたしの母親は別に処女でもなんでもなかったらしいんだけれども、わたしを産む時だけは受精せずに産んだ、ということなんだ。
まあ言ってみればキモさの最上かもしれないけど、ほんとうのことだからしょうがないよね。
「シャム。あなたって、誰なの?」
「事実だけ言うね」
「うん」
「記憶が消えない人間」
「え?」
ちょっと言い方がまずかったかな。
もう少し分かりやすく言ってみようか。
モヤにはもう遠慮もなにもいらないんだから。
「前世の痕跡が残り続ける人間」
「いわゆる『前世持ち』ってこと?」
「ううん。前世も、その前も、その前の前も、そのもっと前も、全部」
「ねえ、シャム。あなたってほんとうは何歳?」
「20歳」
「どうして」
モヤとわたしは西の高野山と呼ばれるその山の麓で常緑の木々というよりはその根元にある永遠の緑かと思える苔のところどころ深くところどころ浅い緑に目をやわらげられている。
「今のわたしの人格が生まれてからは20年だから」
「…じゃあ、その前は?」
「軍人」
「いつの?」
「第二次世界大戦の。戦地はミャンマー」
「その前は」
「武士」
「男?女?」
「おんな武士。でも一般的な武家の娘ってわけじゃない。地方の覇者だった父親の長兄たちの後で余分に生まれたひとり娘。政略結婚の道具にすらならないみすぼらしい娘」
「その時はどう生きたの?」
「父兄たちの作戦の失敗をカバーするために完成したばかりの最新鋭の導火線を持って領民たちが蹂躙される激戦地までランニングしてデリバリーした。現地で敵の参謀だった若い家老にわたし自身の命で領民を救うよう交渉して爆死した」
「…その時の痛みは?」
「即死だったから痛みはない。でも、たどり着くまでにみすぼらしいながらも、女である、ってことを何回か使って生き延びたからその気持ち悪い感触は消えないかな」
気がついたらモヤはヒールを履いたまま苔のふぁさ、とした繊毛の上にまっすぐに近いふくらはぎをその上に乗る太ももでぺたんこに潰しているその形がとてもエロティックで、だからわたしはモヤの向かいじゃなくって左隣に横座りしてそうして髪をこつんとモヤのこめかみのあたりに触れさせたんだ。
「シャム。もっと聴きたい。あなたがこれまで『何』だったのか」
「武士の前はトンビ。でね、ある朝司法書士事務所の駐車場に不時着するみたいにして降りて羽をふぁさ、として畳んで、そうして寿命が尽きた」
「ちょっと待って。武士の前が司法書士事務所?現代?」
「モヤ。時間が直線上をまっすぐに動いてるんじゃなくてね」
「それってアインシュタイン?」
「ううん。あんなものはまがいもの。時間は縦横無尽なだけ」
「モヤ」
「なに」
「どうしてアインシュタインがまがいものなの?」
「頭が悪いから」
紀元前紀元後を通じて最高の天才と呼ばれるその人間を『頭が悪い』と言い切るわたしを、けれども今はもうモヤはすんなりと受け入れてくれている。
「モヤ。わたしは科学を否定してるわけじゃないよ。ただ、人間の積み重ねてきた科学が、あまりにも稚拙なだけ」
「それは人智だから、って意味?」
「ううん。ホンキじゃないから」
「ホンキ?」
わたしは右胸をモヤの左胸に意図的に押し当てた。
もちろん押し当てられるほどわたしの胸に膨らみがあるわけじゃない。
胸骨がゴリゴリなりそうなぐらいに強く押し当てるってだけ。
「シャム…ホンキ?」
「うん。わたしはホンキ。モヤが望むなら」
「わたしはいいよ」
いいよ、の意味を詮索はしない。
ただわたしは解答するだけ。
「阿弥陀如来さまは摂取不捨、遍く全員救うことを本願とされて、ホンキでそうなさった。阿弥陀さまが仏さまとなっておられているっていうことは本願成就なさって、ほんとうに全員救われてるってことだよ」
「救われてないって思ってるひとがほとんどじゃ?」
「ホンキになろうよ、モヤ」
観念的に仏法や神徳を言う人間は多いよ。哲学的に、と言い換えてもいいかな。
でも、ホンキで神さまや仏さまを、物理的に存在するって『認めてる』人間がどれだけいるか。
「シャム。どうして誰もホンキにならないんだろ」
「きまってるよそんなの」
ここが現代の娑婆での、恩人が言いたかったことの核心でもあるだろう。
「自分が神になりたいから」
政治家
学者
経営者
芸人
作家
音楽家
画家
カルトの教祖
インフルエンサー
地方の名士
自治会長
「モヤ。言いたくないけれども、坊さんすら、自分が52段高の仏の頭上に登ろうとしてるでしょ」
「…言い返せない」
わたしはでもだからこそモヤをなにひとつ隠し事が不要な相手だと観てとった。
「そんな中、モヤを拾ってくれたその高野山の若き僧侶は、誠心誠意、仏法への奉仕者だよ」
「うん」
「仏の、フォロワーだよ」
「シャム」
モヤはいつの間にか、鼻から顎にかけてのラインが道筋のついた小川のようになっていた。
「ありがとう」
夫婦?
ちがう
恋人?
ちがう
友達?
ちがう
親子?
そんなわけない
「答えはね。師弟だよ」
「わかる」
なぜかっていうとね、目的が明確だから
弟子が師事するその事柄がより娑婆で必須の事柄であればなおさらだ
補足するならば、娑婆で特になくてもよいけれどもあってもよいということにおける師匠は、位ばかりが高くて世辞にも世事に明るいとは言えず暗い。
「法の師弟をもって最上となす、だよ。モヤ」
「シャム。あなたとその『恩人』の関係は?最初からお師匠さまだったの?」
「わたしは遭ったことがない」
「それってどういう」
「わたしを生まれることにして、それからすぐに亡くなったから」
「シャムを生まれることにした?」
「そう。無精卵って知ってる?」
「うんわかるよ。今の鶏卵のほとんどがそうだよね。受精しなくても卵を産んで、ひよこが生まれる可能性ゼロの卵だよね」
「わたしは無精卵から生まれたんだよ。恩人のおかげでね」
別に古の西洋の聖人が処女から生まれたとかそんなことは別にほんとうだろうが勘違いだろうがどちらでもよいのであって、わたしの母親は別に処女でもなんでもなかったらしいんだけれども、わたしを産む時だけは受精せずに産んだ、ということなんだ。
まあ言ってみればキモさの最上かもしれないけど、ほんとうのことだからしょうがないよね。
「シャム。あなたって、誰なの?」
「事実だけ言うね」
「うん」
「記憶が消えない人間」
「え?」
ちょっと言い方がまずかったかな。
もう少し分かりやすく言ってみようか。
モヤにはもう遠慮もなにもいらないんだから。
「前世の痕跡が残り続ける人間」
「いわゆる『前世持ち』ってこと?」
「ううん。前世も、その前も、その前の前も、そのもっと前も、全部」
「ねえ、シャム。あなたってほんとうは何歳?」
「20歳」
「どうして」
モヤとわたしは西の高野山と呼ばれるその山の麓で常緑の木々というよりはその根元にある永遠の緑かと思える苔のところどころ深くところどころ浅い緑に目をやわらげられている。
「今のわたしの人格が生まれてからは20年だから」
「…じゃあ、その前は?」
「軍人」
「いつの?」
「第二次世界大戦の。戦地はミャンマー」
「その前は」
「武士」
「男?女?」
「おんな武士。でも一般的な武家の娘ってわけじゃない。地方の覇者だった父親の長兄たちの後で余分に生まれたひとり娘。政略結婚の道具にすらならないみすぼらしい娘」
「その時はどう生きたの?」
「父兄たちの作戦の失敗をカバーするために完成したばかりの最新鋭の導火線を持って領民たちが蹂躙される激戦地までランニングしてデリバリーした。現地で敵の参謀だった若い家老にわたし自身の命で領民を救うよう交渉して爆死した」
「…その時の痛みは?」
「即死だったから痛みはない。でも、たどり着くまでにみすぼらしいながらも、女である、ってことを何回か使って生き延びたからその気持ち悪い感触は消えないかな」
気がついたらモヤはヒールを履いたまま苔のふぁさ、とした繊毛の上にまっすぐに近いふくらはぎをその上に乗る太ももでぺたんこに潰しているその形がとてもエロティックで、だからわたしはモヤの向かいじゃなくって左隣に横座りしてそうして髪をこつんとモヤのこめかみのあたりに触れさせたんだ。
「シャム。もっと聴きたい。あなたがこれまで『何』だったのか」
「武士の前はトンビ。でね、ある朝司法書士事務所の駐車場に不時着するみたいにして降りて羽をふぁさ、として畳んで、そうして寿命が尽きた」
「ちょっと待って。武士の前が司法書士事務所?現代?」
「モヤ。時間が直線上をまっすぐに動いてるんじゃなくてね」
「それってアインシュタイン?」
「ううん。あんなものはまがいもの。時間は縦横無尽なだけ」
「モヤ」
「なに」
「どうしてアインシュタインがまがいものなの?」
「頭が悪いから」
紀元前紀元後を通じて最高の天才と呼ばれるその人間を『頭が悪い』と言い切るわたしを、けれども今はもうモヤはすんなりと受け入れてくれている。
「モヤ。わたしは科学を否定してるわけじゃないよ。ただ、人間の積み重ねてきた科学が、あまりにも稚拙なだけ」
「それは人智だから、って意味?」
「ううん。ホンキじゃないから」
「ホンキ?」
わたしは右胸をモヤの左胸に意図的に押し当てた。
もちろん押し当てられるほどわたしの胸に膨らみがあるわけじゃない。
胸骨がゴリゴリなりそうなぐらいに強く押し当てるってだけ。
「シャム…ホンキ?」
「うん。わたしはホンキ。モヤが望むなら」
「わたしはいいよ」
いいよ、の意味を詮索はしない。
ただわたしは解答するだけ。
「阿弥陀如来さまは摂取不捨、遍く全員救うことを本願とされて、ホンキでそうなさった。阿弥陀さまが仏さまとなっておられているっていうことは本願成就なさって、ほんとうに全員救われてるってことだよ」
「救われてないって思ってるひとがほとんどじゃ?」
「ホンキになろうよ、モヤ」
観念的に仏法や神徳を言う人間は多いよ。哲学的に、と言い換えてもいいかな。
でも、ホンキで神さまや仏さまを、物理的に存在するって『認めてる』人間がどれだけいるか。
「シャム。どうして誰もホンキにならないんだろ」
「きまってるよそんなの」
ここが現代の娑婆での、恩人が言いたかったことの核心でもあるだろう。
「自分が神になりたいから」
政治家
学者
経営者
芸人
作家
音楽家
画家
カルトの教祖
インフルエンサー
地方の名士
自治会長
「モヤ。言いたくないけれども、坊さんすら、自分が52段高の仏の頭上に登ろうとしてるでしょ」
「…言い返せない」
わたしはでもだからこそモヤをなにひとつ隠し事が不要な相手だと観てとった。
「そんな中、モヤを拾ってくれたその高野山の若き僧侶は、誠心誠意、仏法への奉仕者だよ」
「うん」
「仏の、フォロワーだよ」
「シャム」
モヤはいつの間にか、鼻から顎にかけてのラインが道筋のついた小川のようになっていた。
「ありがとう」