第115話 岩の上にも100万日

文字数 2,436文字

 第二十一番札所 舎身山 常住院 太龍寺

 ずっとモヤのギャランで道程をたどってきたけれども、ここばかりはわたしも初めての乗り物に乗った。

「シャム。高いの平気?」
「いや…ちょっと、怖い。モヤは?」
「わたしはいつもヒール履いてて高いの慣れてるから」

 モヤらしい粋な返答。

 でもほんとダメかもしれない。

 四国に来るにあたって初めて乗った飛行機の次にいきなり今度はさらにブラブラするよ。

 ロープウェイ

「ほぉぉー」

 同乗しているお遍路さんたちもさすがにこの絶景に声が出る出る。

「南無大師遍照金剛」

 称名も出る出る。

「南無阿弥陀仏ということは誠の心と読めるなり誠の心と読む上は凡夫の迷心にあらずまったく仏心なり南無阿弥陀仏ということは…」
「シャムどうしたの?それにそのお題目?は?」
「ロープウェイが落ちないように祈ってるの。それからこの文言はわたしの恩人からの口伝」

 わたしが唱えている言葉に、モヤ以外にも反応してくれた人がいた。

「迷心でなく仏心ですか」

 女性で、他のお遍路さんから比べたら遥かに若い、髪がショートの背の低いひと。
 『迷信』じゃなくてちゃんと『迷心』と発音してくれてる。わたしには分かる。

「はい。仏心でないと完璧は期せないと」
「すごいですね。完璧、を求めるんですね」

 おせっかいかもしれないけれどもわたしはその女性に更に解説した。

「完璧を目指さないとダメなんです。だって、ひとりでも救い漏らしがあったら、全員救わないのと何も変わらないですから」
「!」

 映画の演出じゃないかと思えるくらいに女性の目が一段と大きく開かれ、とても印象的な二重瞼がほとんど一重になるぐらいに目の周囲の皮膚が突っ張っていった。わたしは更にたたみ込む。

「摂取不捨はひとりでも捨てたら台無しなんです。完全なる敗北なんです」

 ゴアア!

「うわ!」
「うおっ!」

 風というには砲弾でも受けたのではないかというような音と衝撃だった。ロープウェイの箱が、横ではなくて前後に揺れた。

 同時に動きが止まった。

「強風のため一時停止いたします」

 運転手さんのアナウンスが箱の中に流れる。

 思いがけず乗り合わせた全員が一心同体の運命共同体であることに気づく。

 運転手さんが無線でターミナルと連絡を取る。

「強風がやまないです。動力は止めましたが車体の揺れがかなり激しいです」

 ざーっ
 ざーっ
 ざーっ

 ノイズが入って無線も役に立たないようだ。ノイズで難聴になる危険性があったからだろう、運転手さんはヘッドセットを外した。

 わたしは第六感をねじ込まれた。

『落ちるぞ』

「モヤ。モヤが知ってる弘法大師さまの一番すごい話聴かせて」
「え?ええ?今かい?」
「うん。おねがい」

 モヤはほとんど間を置かずに話し始めた。

「わたしが入ってた施設の談話室に本棚があってそこに弘法大師さまの漫画があったんだ。その中に出てきたんだけど、岩の上で嵐の中虚空蔵菩薩さまの真言を唱えるお大師さまが、突風で吹き飛ばされないように体を縄で岩にくくりつけて唱え続けるという」
「モヤ、ありがとう」

 わたしが言ってすぐにモヤはまた言った。

「あっ?そういえばこの太龍寺の、虚空蔵求聞持法を100日間岩の上でなさった時のシーンだったのかなっ?」

 ギ・ギ・ギ・ギ・ギ…

 ワイヤーがしなると、乗客は多少はざわめくけれどもさすが全員お遍路さんだ。必要以上には取り乱したりはしていないようだけれども、さっきわたしがねじ込まれた『落ちるぞ』という言葉を幻聴だと思うような育てられ方をわたしはしていない。

 ただ、お遍路さんたちは仏道に志を持ってはいるけれども宗派は多様だろう。

 それぞれの思い思いの真言や祈りがあろう。

 でも、わたしは、その中で敢えて先陣を切ったよ。

「なむあみだぶつ」

 わたしの普段の声からしたらその二倍〜三倍はあるだろう声で言った。

 でもわたしひとりだ。

 全員が、なんらかのエネルギーをひとつにしないと、落ちてしまう。

「なむあみだぶつ!」

 あっ

「南無阿弥陀仏!南無阿弥陀仏!南無阿弥陀仏!」

 さっきの女性が、とてもあの小さくて内気にこもりそうなその容貌からは見てとれない大音声で三度お六字を唱えてくれた。

「なむあみだぁぶつぅぅぅ!」

 女性の激情が乗り合う全員の衝動を本能のレベルで拡大したよ。

「「「「「なむあみだぁぶつぅぅぅ!!!」」」」

 老爺も
 老婆も
 中年も
 若年も

 声と肚をひとつにできたのは、称名念仏ではあるけれどもお大師さまのおかげ

 ひそみおる太龍のおかげ

 百万遍唱えられたであろう真言のおかげ

 グワオウウウ!!!

 さっきまで吹いていた絶望しそうな風量を更に五倍ぐらいにしたような、地獄レベルの大風が吹いた

 けれども

「逆巻きだ」

 運転手さんにはおそらく何度かこういう命の危機に瀕するような経験があったのだろう。腕に巻いたGPSウォッチの秒数を黙読しているようだ。

 こく、こく、こく、とお六字の助けたまえと絶叫するような称号の中、運転手さんひとりが黙してカウントダウンしているようだ。

 最後は目を閉じた

「よし!」

 ガクン、とロープウェイが風ではなく自らの動力で自らの躯体を揺らす感覚だった。

「これより本機は全速で山頂を目指します!」

 その瞬間、シュウウウウ、と風が弱まって…
 数秒後にはやんだ

 ほおおおー! と歓喜の声をあげる同志お遍路さんたち

 まだ安心できぬとはいえ、運転手さんの自信に満ちた操舵はまさしく難破絶命の危機にあった弘法大師さまを乗せた遣唐使船が、弘法大師さまの真言で嵐を調伏してとうとう大陸へと辿り着いたシーンと一致するだろう。

「シャム、観てごらん」

 やっぱりモヤはただの子じゃなかった。

 わたしも視えてたそれを、モヤははっきりと指でその大きさまで示しながらつぶやいた。

「龍が、逆巻きに旋回して、風を止めてる」
「うん」

 モヤにはもう遠慮も隠匿もいらないと判断がついたよ。

 だからモヤにこう言った。

「当然だよ。わたしたちが乗っているんだから」
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