第114話 百万遍って想像つく?
文字数 2,156文字
わたしはかつての生で学生時代に問題集をやっていたとき、その中にある『コラム』のコーナーが好きだった。
スマホをギアとして扱う世で今更豆知識みたいなものをわざわざ冊子の中に挟み込む必要があるかどうかはわからないけれども閑話休題とでもいうような憩いのひととき感がよかったと思うよ。
そして今わたしとモヤはコラムの時間。
「はいモヤ。運転お疲れ様」
「ありがとう、シャム」
若き女流先達ドライバーであるモヤは普通ならば車の運転には使わないような白のハイヒールを優雅に履きこなしてただでさえ長身のフォルムをさらに姿勢よく天に向かって反るぐらい真っ直ぐに伸びる杉の古木のようにボトルコーヒーを唇に含んだ。
「シャム。ひたすらに何かを繰り返しトレーニングしたことってある?」
「中学生の時は問題集を反射練習みたいに繰り返したかな」
「成績良かった?」
「いつの時の」
「へ?」
「あ、ごめんごめん。そうだね、まあ可もなく不可もなく」
「ふうん。わたしはねえ、腹筋を繰り返してたよ」
「へえ…あ、それでモヤはそんなにお腹がぺたんこなんだね」
「服の上からじゃわからないでしょ?」
「ううん。わかる」
わかるんだよ
「ねえ、シャム。百万遍、ってどのぐらい?」
「え…何を百万遍?」
「ほら。弘法大師さまの『虚空蔵求聞持法』は虚空蔵菩薩さまの真言を百万遍でしょ?一体そんなことが生身の人間にできると思う?」
「そうだね…一生かかっても唱えられないかもしれないね。あ、でもね、モヤ」
「なに」
「わたし百万遍には行ったことあるよ」
モヤが拾われてから何歳の頃に京都から徳島に来たのかはわからないけど、わたしはかつての生の時に京都にある百万遍のお寺へお参りした時のことを話した。
「そのお寺でね、大きな長い、綱引きの綱みたいな御数珠をみんなで輪になって手に持ってね。それをぐるぐる回すんだ」
「シャムがそれをやったの?」
「うんそうだよ」
「なんか意外」
「モヤ。そうやってお数珠をみんなしてお六字を唱えながら繰り回していくとね、お念仏を百万遍唱えたのと同じ功徳があるんだって」
「功徳あった?」
「あったからこうしてモヤと一緒に四国を回ってる」
「そうか」
休憩タイムだから精神を休めることを優先した方がいいってわかってるんだけど、でも気になることをそのまま放っておくことの方が精神衛生上よくないからわたしはモヤに話した。ちなみに今『精神衛生上』という言葉を使ったのは、そういう嫌な人ごとみたいな言い回しをした人がいたからなんだけどとりあえず今はどうでもいいことだよね。
「モヤ。あのロンドンブーツを履いた修験者だけどさ」
「ああ、うん」
「また出てくるような気がするんだ」
「やだ」
モヤもやだとはいいながらそういう予感があるに違いない。
だって、これってわたしの人生なんだもん。
平穏無事なわけがない。
わたしが好きな作家が『我が執筆は艱難辛苦を旨とす』って宣言してたけど、わたしのお遍路も艱難辛苦危険隣接言語道断自家中毒の道中になること必至だろう。
「何か策でもある?シャム」
「モヤにないんだったらわたしにある訳がないよ」
「あれだけ派手な格好だったからね…ちょっとツイッターでも見てみようか」
モヤは #四国八十八ヶ所 #お遍路 #修験者 までハッシュタグでツイート検索した
「うーん。修験者だと何年も前の話題のツイートしかないね」
ダメもとでもうひとつ試してみた。
#ロンドンブーツ
「あ!」
「え!」
わたしもモヤもボトルコーヒーを持った左手を、ぶらん、とお尻の位置ぐらいまで垂れ下げて、そうしてそのまま振り子運動みたいに数秒間ぶらんぶらん漂わせた。
『怪僧、バイクで四国激走!』
画像入りのツイートが多数
どこからどう見てもあの修験者だったよ
「このバイクって、アマゾネスだな」
「わたしこんな大きなバイク初めて観た」
モヤが『アマゾネス』 って言ったそのバイクは真紅でまるで車ぐらいの大きさがあるんじゃないかっていうぐらいで
けれどもそれよりもなによりも『怪僧』の目撃情報としてツイートされてるその写真に写っている修験者の乗り方が異様だった。
「手放しだな」
「え?あ、ほんとだ!」
わたしは鉄の錫杖を右手で天に突き立てるようにして持って左手でハンドルを握ってるのかと思ったら左手は合掌の片手版のような形でやっぱりハンドルには触れていない。
「バイクってこんな風に運転できるの?」
「いや。ハンドルに触れずになんて無理だ。シャム、観てごらん」
言われてもうひとりがツイートしてる写真を観た。
「足でやってる」
「うわっ」
右足をハンドルの右側に投げ出すようにして載せて、左足はバイクの下の方に下ろしてる。
「ふうん。アクセルを右足で回すか固定して、左足でクラッチを操作してる。へえ」
「な、なんでこんなことを?」
「修行なんじゃないの?」
確かにバイクの運転中も手は仏か神への祈りのために立てたままでというのはひょっとしたら弘法大師さまの『百万遍』をやり通す苦肉の策なのかもしれないと一瞬だけ思ったよ。
一瞬だけだよ。
「モヤ。そもそもどうしてこの人バイクで?」
「わかんない」
わかんないというのは理解し難いっていうニュアンスの方が今は強いかな。
「でもシャム。多分嫌でもまた遭うよ?」
「うん。わたしもそう思う」
スマホをギアとして扱う世で今更豆知識みたいなものをわざわざ冊子の中に挟み込む必要があるかどうかはわからないけれども閑話休題とでもいうような憩いのひととき感がよかったと思うよ。
そして今わたしとモヤはコラムの時間。
「はいモヤ。運転お疲れ様」
「ありがとう、シャム」
若き女流先達ドライバーであるモヤは普通ならば車の運転には使わないような白のハイヒールを優雅に履きこなしてただでさえ長身のフォルムをさらに姿勢よく天に向かって反るぐらい真っ直ぐに伸びる杉の古木のようにボトルコーヒーを唇に含んだ。
「シャム。ひたすらに何かを繰り返しトレーニングしたことってある?」
「中学生の時は問題集を反射練習みたいに繰り返したかな」
「成績良かった?」
「いつの時の」
「へ?」
「あ、ごめんごめん。そうだね、まあ可もなく不可もなく」
「ふうん。わたしはねえ、腹筋を繰り返してたよ」
「へえ…あ、それでモヤはそんなにお腹がぺたんこなんだね」
「服の上からじゃわからないでしょ?」
「ううん。わかる」
わかるんだよ
「ねえ、シャム。百万遍、ってどのぐらい?」
「え…何を百万遍?」
「ほら。弘法大師さまの『虚空蔵求聞持法』は虚空蔵菩薩さまの真言を百万遍でしょ?一体そんなことが生身の人間にできると思う?」
「そうだね…一生かかっても唱えられないかもしれないね。あ、でもね、モヤ」
「なに」
「わたし百万遍には行ったことあるよ」
モヤが拾われてから何歳の頃に京都から徳島に来たのかはわからないけど、わたしはかつての生の時に京都にある百万遍のお寺へお参りした時のことを話した。
「そのお寺でね、大きな長い、綱引きの綱みたいな御数珠をみんなで輪になって手に持ってね。それをぐるぐる回すんだ」
「シャムがそれをやったの?」
「うんそうだよ」
「なんか意外」
「モヤ。そうやってお数珠をみんなしてお六字を唱えながら繰り回していくとね、お念仏を百万遍唱えたのと同じ功徳があるんだって」
「功徳あった?」
「あったからこうしてモヤと一緒に四国を回ってる」
「そうか」
休憩タイムだから精神を休めることを優先した方がいいってわかってるんだけど、でも気になることをそのまま放っておくことの方が精神衛生上よくないからわたしはモヤに話した。ちなみに今『精神衛生上』という言葉を使ったのは、そういう嫌な人ごとみたいな言い回しをした人がいたからなんだけどとりあえず今はどうでもいいことだよね。
「モヤ。あのロンドンブーツを履いた修験者だけどさ」
「ああ、うん」
「また出てくるような気がするんだ」
「やだ」
モヤもやだとはいいながらそういう予感があるに違いない。
だって、これってわたしの人生なんだもん。
平穏無事なわけがない。
わたしが好きな作家が『我が執筆は艱難辛苦を旨とす』って宣言してたけど、わたしのお遍路も艱難辛苦危険隣接言語道断自家中毒の道中になること必至だろう。
「何か策でもある?シャム」
「モヤにないんだったらわたしにある訳がないよ」
「あれだけ派手な格好だったからね…ちょっとツイッターでも見てみようか」
モヤは #四国八十八ヶ所 #お遍路 #修験者 までハッシュタグでツイート検索した
「うーん。修験者だと何年も前の話題のツイートしかないね」
ダメもとでもうひとつ試してみた。
#ロンドンブーツ
「あ!」
「え!」
わたしもモヤもボトルコーヒーを持った左手を、ぶらん、とお尻の位置ぐらいまで垂れ下げて、そうしてそのまま振り子運動みたいに数秒間ぶらんぶらん漂わせた。
『怪僧、バイクで四国激走!』
画像入りのツイートが多数
どこからどう見てもあの修験者だったよ
「このバイクって、アマゾネスだな」
「わたしこんな大きなバイク初めて観た」
モヤが『アマゾネス』 って言ったそのバイクは真紅でまるで車ぐらいの大きさがあるんじゃないかっていうぐらいで
けれどもそれよりもなによりも『怪僧』の目撃情報としてツイートされてるその写真に写っている修験者の乗り方が異様だった。
「手放しだな」
「え?あ、ほんとだ!」
わたしは鉄の錫杖を右手で天に突き立てるようにして持って左手でハンドルを握ってるのかと思ったら左手は合掌の片手版のような形でやっぱりハンドルには触れていない。
「バイクってこんな風に運転できるの?」
「いや。ハンドルに触れずになんて無理だ。シャム、観てごらん」
言われてもうひとりがツイートしてる写真を観た。
「足でやってる」
「うわっ」
右足をハンドルの右側に投げ出すようにして載せて、左足はバイクの下の方に下ろしてる。
「ふうん。アクセルを右足で回すか固定して、左足でクラッチを操作してる。へえ」
「な、なんでこんなことを?」
「修行なんじゃないの?」
確かにバイクの運転中も手は仏か神への祈りのために立てたままでというのはひょっとしたら弘法大師さまの『百万遍』をやり通す苦肉の策なのかもしれないと一瞬だけ思ったよ。
一瞬だけだよ。
「モヤ。そもそもどうしてこの人バイクで?」
「わかんない」
わかんないというのは理解し難いっていうニュアンスの方が今は強いかな。
「でもシャム。多分嫌でもまた遭うよ?」
「うん。わたしもそう思う」