第154話 百万遍「する」技法

文字数 2,053文字

「わたし、やってるんですよ」

 虚空蔵求聞持法を

「危険だよ、シナリ」

 即座にモヤが答えた

「だって虚空蔵求聞持法は一日一万回、100日間で唱えなくてはならなくて、もし途中で挫折したらその時は『自決』しなくてはならない」
「モヤさん、詳しいですね」
「わたしを赤ちゃんポストから引き取ってくれた坊さまが、やろうとしてたから」

 モヤの恩人のその若き青年僧侶は、僧となった所以も人生の大難事に突き当たって生死を悩み抜いた結果であったから、ホンキで虚空蔵求聞持法をやろうとしたが既に寺での役割もあり始めるにはいたらなかった

「シナリちゃん、実際を知らないわたしでも虚空蔵求聞持法の危険を知っているわ。百万遍。数を間違えることすらなくやりとげないといけない。しかも弘法大師さまでさえ命を賭しての修行の中で精神を研ぎ澄まし集中に集中を繋ぎ続けて満願したのだから。シナリちゃんにその力が無いというつもりではないの。誰がやっても『精神に異常をきたして狂い死んでしまう』危険と隣り合わせなんだよ」
「ふふ」

 え

 彼女は、ほほえんだ

 なんなんだろう、この子は

「シャムさん、モヤさん、ご安心ください」

 突然高校2年生の女の子の表情に戻る

「弘法大師さまへの憧れの余りやろうとした時、祖母に相談したんです。『やるから』って」
「で?」
「『おやりなさい』と、祖母は言いました」

 なんておばあさま

「でも、即座にこう続きました。『弘法大師さまは生まれ落ちたその瞬間から虚空蔵求聞持法満願の瞬間に向けて、無意識の内に日々努力を積み重ねていたのだよ』と」
「すごい…」
「ぐうの音も出ませんでした。だから今わたしは、準備段階なんです」
「びっくりしたぁ…」
「モヤ」
「ん?」
「それでもすごいよ。シナリちゃん、虚空蔵求聞持法をやり切るその準備を教えて?」
「はい」

 彼女は、極めて論理的に、おそらくは学術や科学などでは到底得られないであろう納得感をわたしたちに与える『プレゼン』をした

「わたしが人生を賭けてやりたいこととなんのために虚空蔵求聞持法をやるかという目的を一致させるんです」

 やりたいこと
 やらねばならぬこと

 それを一致させる、と16歳の女子が、今わたしの目の前で言っている

 ああ…

 松山にこの女子あり

 伊予国にこの女子あり

 日本国にこの女子あり

「だからお遍路を重ねて…そうしてわたしのココロを磨いているところです」
「素敵だ!」

 モヤが感極まって、ここ八坂寺の境内にもかかわらず長身にモノを言わせてシナリの二の腕ごとぎゅむっ、と抱きしめた

 頬擦りすらする

 どっちが愛玩動物だかわからないけど、シナリの方が人間ぽい仕草でモヤのさせたいようにさせたままで話を続けてくれた

「まだ真言を称え始めてもいないですけど、記憶力や集中力が上がってきているような気がしますよ」

 そうだろう

 そうだろう

 ほんとにそうだろう

 本来、ひとにはやらねばならぬことがある

 わかってはいるのに、やらないのが人間だ

 やらないことの言い訳に夢を語るのも人間だ

 けれどもこの女子は

 生まれ故郷のこの松山という地で、自らの人生を最大限に使い尽くす道を渇望している

 ああ

 まさにおんな武士かな

「シナリちゃん。実はわたしの恩人はね」

 ここ 四十七番札所 熊野山 妙見院 八坂寺 には閻魔堂がおわす

 そこには餓鬼道、畜生道、修羅道といった地獄が描かれている

 わたしは彼女を日本の将来を担う女子と見て伝えた

「わたしの恩人はね、ホンモノの地獄をねじ込まれたの」
「ホンモノの、地獄…」
「それはおそらく、虚空蔵求聞持法を満願した瞬間の衝撃にも等しいものだと思う。事実恩人は亡者たちのそのホンモノの血、ホンモノの臓物、ホンモノの炎、ホンモノの肉と毛が焦げる匂いと腐臭をねじ込まれてもそれでも…」

 シナリがわたしを凝視している

「…発狂しなかった。自らが発狂しないどころか、それを旅の絵師に口頭で説明して日本画の掛け軸を描かせた」
「…すごい…」
「でも恩人はそのホンモノの地獄に接する時、同時にホンモノの極楽も注入された。だから絵師に極楽のお軸も描かせた」

 モヤはより一層シナリを抱く力を強めている

 ううん、強めてるんじゃなくて、硬直して結果的に抱きしめ力が増してるんだね

「恩人は発狂しなかったけれども、嗚咽がとまらず…慈悲深かったんだね…嫁いだ家が持っていた長屋にココロの病のひとたちを住まわせて夜中に暴れ出すと背中をさすって『そうかそうか』となだめて回ったの。だから恩人もホンモノの…」

 その後はわたしは言えなかった

 畏れ多くて

「シャムさん。その恩人さまこそ弘法大師さまのご意志を継いだ方だったのかもしれませんね」

 わたしは、うん、と頷きながら、けれども違う返事を口にした

「いいえ。シナリちゃん」

 わたしはこの女子を見据える

「そういうひとがこの日本にはきっと大勢いる。あなたも間違いなく弘法大師さまのご意志を継ぐひと。そしてね、この四国でお遍路するひとは全員、『同行ふたり』でご意志を継ぐひとたちなんだろうと思う」
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